札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「主よ、どこへ
ヨハネによる福音書14章1節〜17節
牧師 堤 隆
− 5月31日(日)聖霊降臨節礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(6月号

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 トマスはペトロのように意気込みだけでは、主について行けないことに既に気づかされています。それもあって、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」(5節)と言いました。これに対して主がこたえられたのが有名な「私は道であり、真理であり、命である」(6節)というお言葉えです。小説の題名にもなった「主よ、どこへ(クオ・ヴァディス)」という問いに、主ははっきりと「わたしは道である」とお答えになりました。ここはむしろ、「わたしが道である」と読んだ方が良さそうです。「今わたしは行く。そして、その後にあなた方も行くことになる・神の中へ。そのときの道がわたしである」と主はおっしゃりたいのだと思われます。無教会の指導者でありました矢内原忠雄という方のこのところの解説に私は心惹かれました。「道がなければ父のところに往区ことが出来ず、道があっても之を知らなければ往けない。道を知っても歩く力がなければ駄目だ。力の根源は生命である。然らば生命はどこから得られるか。『我は命なり』即ちイエスを有つ者が生命を有つのである。イエスが父なる神のもとに到る道であり、又その道を知る知識(真理)であり、同時に道を歩く力(生命)でありたもふ。」本当によく伝わって来ます。イエス様はこんな風に言ってくださったのだよと噛み砕いて教えてもらうような気がしました。主は愛を込めて、父なる神の中で信じるために、自分はこうなってあげようと言っていてくださることが分かりました。
 7節のイエス・キリストを知って、父なる神を知るというところですが、これを「既に見ている」と主は言い換えておられます。この「見る」という語は「頭で見る=認めること」と私の持っている辞書にはありました。そして、もう一つ、経験によって知るときにも、この「見る」という語を当てると説明してありました。ですから、イエス様の顔を見ていたら、目や鼻が父なる神様とそっくりだと分かるというようなことではありません。それですと、今の私たちには見ることは出来ません。フィリポはこの間違いを犯しています。「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(8節)と言いました。フィリポは顔が見たいと言ったも同然です。奇跡や証拠を見るように見たいと申しました。これに対して主は大変丁寧にお答えになりました。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は自分から話しているのではない。わたしの内におれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが意うのを信じなさい。」(11〜12節)ここでは、「内に〜内に〜」と繰り返されています。明らかに、これは「父なる神の中で、そしてわたしの中で信じなさい」(1節直訳)と言われたことと呼応しています。父と子が既に「内に」とどまっておられる。互いの内で信頼関係の内にとどまっておられる姿を言います。そして主はこのところを見るのだと言われます。
 ここにはまた「信じる」ということが繰り返されています。そこだけを抜き出して見ますと、「信じないのか〜信じなさい〜私を信じる者は〜」となります。こう語ってきて、「私を信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言われます。これは主イエスが行われるよりも、もっと大きな業を私たちが行うようになるということではありません。「何でもかなえてあげよう」(13節)というところは「わたしが行うだろう」(直訳)です。イエス・キリストを信じる者が、イエス・キリストの名によって願うことは、イエス・キリストがそれを行って下さる。これが、大きな業を行うようになると言うことです。キリストとの一体性、生命的な一体性が言われています。それが大きな業です。キリストと一体となり、父なる神と子なる神との一体性の中に入れられる。それは命の交わり、愛の交わりの中に入れられることです。聖霊が注がれたペンテコステの日以来、私たちはこの大きな業に参加させられています。
もう「主よ、どこへ」と言わなくてもよくされています。

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