札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「人はひとの罪を赦せるか
マタイによる福音書18章15節〜35節
牧師 堤 隆
− 6月28日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(7月号

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」とペトロは主に問うていますが、これは「八回目はもう赦さなくてもいいですよね」と言いたがったのではないと思います。七回赦しても相手が罪を認めないのであれば、八回目を赦すことをあきらめても止もうえませんですよねと言っているのではありません。当時ユダヤ人の間では、赦すのは三回までと考えられていたといいます。神は人の過ちを三度までなら赦してくださる。だから、人も誰かのことを三度まで赦さなければならないとされていたといいます。私たちの国の「仏の顔も三度まで」というのと似ています。ペトロも三度までということなら知っていたはずです。それを七回までですかと言っています。七は完全数ですから、「四回までですか」といっているのではありません。回数は問題ではありません。人は本当にひとの罪を赦せるのでしょうかと、自分の問題として切実にお尋ねしたものと思われます。ひとの罪を赦せるか。」ペトロならずとも、「あなたはどうか」と問われたら、考え込まずにおれないのではないでしょうか。ひとの足を踏んだ方は「御免」と言ってしまったら、もうそれで済んだと思ってすぐに忘れてしまう。けれども、踏まれた方はそう簡単に忘れられるものではないと、よく言われます。特に執念深い人に限ったことではないと思います。やられた方は忘れがたい。どんな人でも、恨みがましく思ってしまう。「御免」と謝られて、「ああ、いいよ」と言ったはずなのに、「あの人にやられた」という思いを捨てきれない。ペトロは自己満足の正義感ではなくて、良い意味で自分のこととして考え始めたのだと思います。果たして、じぶんにはひとの罪を赦せるのだろうかと真剣に受け止めたのだと思います。ですから、七回というのも、回数のことではなくて「本当に」ということを言ったものと思われます。「わたしは本当にひとの罪を赦せるだろうか。一度でもいいから本当に赦せるものなら赦したい。」これがペトロの本音ではなかったか。兄弟を諦めてはいけないとの主のお言葉を、まともに受け止めたものと思われます。直情径行型のペトロと言われますけれども、このときのペトロはそうではなくて、真っ直ぐに聞いて真っ直ぐに応えようとしています。主のお言葉をいいかげんに聞き流しませんでした。...本文略「ひとの罪を本当に赦せるか」と真剣に問うペトロに対して、主は「罪人は兄弟の罪を赦さずに、復讐心をどんどん膨らませてしまうものであることをよくよく考えなさい」と答えられました。もちろん、「おまえには、ひとのことを赦せっこない」と言わんがためではありません。復讐心を膨らませるばかりの罪人は、兄弟の罪とどう向き合えばよいかを教えようとされてのことでした。それを、23節以下のたとえ話で丁寧に教えてくだしました。...本文略主イエスは、また神は、人間の赦しの能力を問題にしておられるのではありません。4回赦せるか、8回ゆるせるか、490回赦せるかと、堪忍袋の大きさを問うておられるのではありません。無限の罪の世界に、無限の赦し(神の赦し)が突入してきたことを告げておられます。しかし、このことを悟らない者のことが、「家来」にたとえられています。借金地獄に陥ったひとが自分の借金に麻痺してしまうのを実際に目の当たりにしたことがあります。すでに借りているものを返さないで借金を重ねてしまう。返す当てもないのに、借りつづけて、心苦しくもないようでした。王は家来の借金を帳消しにしてやっています。家来は返済していません。債務放棄してもらいました。それなのに、家来は大切なところを悟りませんでした。このたとえでは、「仲間」は王の前の家来そっくりに描かれています。家来は王の前での自分の姿を、この仲間に見るべきでした。自分は無限の罪を神に赦された罪人であることを、自覚すべきでした。実際に自分は赦されているのに、それを忘れたかのように振る舞っています。王にあわれまれた家来は、自分の仲間をあわれんでやるべきでした。神のあわれみを受けてひとを本当に赦せるようにと祈らずにはいられません。

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