札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「神は愚か者か」
マタイによる福音書21章33節〜46節
牧師 堤 隆
− 10月4日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(10月号)

 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 山のような罪を揺さぶられた者たちに、なされた第一回目のたとえでは、「考え直す」(29,32節)ことがポイントでした。すべてを取り仕切っているのは自分であってだれにも口出しさせないという山のような罪を抱える者に、そこのところを、よく考え直すようにと語られました。主は考え直すようにと切々と訴えられます。それが、今日のところの語りだしにもにじみ出ています。「もう一つのたとえを聞きなさい」といって、重ねて考え直すことを求めておられます。
 たとえは、主人がすべてを整えたところから始まっています。農夫たちは何一つ手を貸していません。主人はその上で、ぶどう園を農夫たちに貸して旅にでます。この「貸して」は「賃貸にする」という原意があるようです。契約相手がいて、約束を守るとき、初めて賃貸契約は成り立ちます。ですから主人は農夫たちを信用しています。祭司長たちとの根本的な考え方の違いがここにあります。ですから、主人は収穫になったからといって、すべてを自分のものだといって、取り上げようと言うのではありません。約束したことを果たしてくれる相手として信じています。主人の思いは、収穫を分かち合いたいという一点にあります。このたとえはこうです。神様はすべてを整えて、この世界の一切を造られた。人間をそこに住まわせて、神様の備えのもとで生きる人間という実りを分かち合いたいと思っておられる。至極当然な思いです。神様は収穫を独り占めしようとか、人間の収穫などつまらないといって見向きもされないのではありません。神様は実りを分かち合って共に喜びたいと願っておられます。これが、神様の愛のこころです。
 ところが、農夫たちは主人の愛の心を理解せず、主人の心とは全く反対の反応を示しました。収穫を受け取りにきた僕たちを散々な目に遭わせました。これは、単に対照的であるだけだなく、私たちの実態を示しています。私たちは神様の思い、み心から離れるとどこまでも離れていってしまうという正体をです。農夫たちの独占は、自分たちで独り占めしているようでいて、実は自ら神様との交わりを断っています。そして、私たちの罪がこの農夫たちの事実誤認にたとえられています。・・・(略)
 それでも、主人の愛の心はかわりません。「他の僕たちを前よりも多く送った」(36節)のでした。自分の思いを汲んでくれる僕たちが他にも大勢いることを示したかったようです。ところが、農夫たちの罪はエスカレートするばかりでした。一方、主人も息子を護衛も付けずに遣わしました。無謀です。愚かとさえ写ります。しかし、そこには共に分かち合いたい、共に喜びたい、心を通わせたいという主人の愛の心が貫かれています。エスカレートする罪よりも徹底しています。私たちの罪は何でも独占したいがためには、神をも殺します。実際にはできないものですから、神はいないことにしてとか、神の目を盗んでというようなことになります。それが、「息子を捕まえてぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」(39節)と言われているところです。それで相続財産が手には入ったかというと、そうはいきませんでした。その結果について主は祭司長たちに答えさせられました。「その悪人どもをひどい目に遭わせて」(41節)と。そのように裁かれて当然のところで、即ち、罪の極まったところで、神様は徹底してみ心を行われました。神様は愚かさを晒すようにして、御子を十字架に渡されました。そして、さらに御子を復活させられました。これを、愚かと言えるでしょうか。徹底した愛としか言いようがありません。
 44節は厳しい審きのことばですが、祭司長たちを打ち砕き、押しつぶすためにこう言われるのではありません。祭司長たちは「このたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき」(45節)ました。元々このたとえは祭司長たちに聞かせておられるものです。主は洗礼者ヨハネに劣らず、権威を持っておられます。罪をエスカレートさせる者に、そのことを気づかせ、その罪を砕くために、愚かなまでに愛し抜いてくださるのであります。神の愛を愚かにも振り払うことのないようにしたいと思います。 

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