札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「主イエスを試す偽善」
マタイによる福音書22章15節〜22節 
牧師 堤 隆
− 10月25日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(11月号)

 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  主イエスも皇帝と神のことを語られたのだから、教会はもっと社会のことに目を向けなければいけないとか、あるいは逆に、教会は社会問題に熱をあげているうちに、心の問題をおろそかにしてしまったという対立する意見が、交わされることしばしばです。けれども、主はこのところで教会と国家について、原理・原則を打ち立てようとされたのではありませんでした。「言葉じりをとらえて、罠にかけようと」(15節)する質問に答えられたのでした。その罠は、税金を納めることについて仕掛けられたものでした。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(17節)というものです。あなたは、だれをもはばからない人だから、皇帝に対しても、そうですねという。これはファリサイ派の思惑です。これにたいして、人を分け隔てなさらないというのはヘロデ派でした。ローマの支配を好ましく思わない民衆を無視して、税金を払えるかというわけです。どちらに答えても、窮地に陥ります。主はこの悪意のある偽善を見抜かれました。「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか」(18節)。罠にかけようとするものでしたから、悪意が込められています。
 「わたし」=神の子を試すというのは、神を試すも同然です。マタイによる福音書では、御子を試すというのは、これが初めてではありません。4章の荒れ野の誘惑において、御子は悪魔の誘惑に遭っておられます。神の子なら、神の子らしいところを見せろといって、悪魔は迫りました。「〜らしいところを」と言って、悪魔は実は自分の考えるところを御子に押しつけようとしました。悪魔に限らず、私たちも日常的に「〜らしさ」を求めてばかりいるのではないでしょうか。神様なら神様らしいところを見せてほしい。それは、別に威張って、でんとしていてほしいと言っているのではなくて、わたしはこんなことで困っている、悩んでいる、そんなわたしに解決と安らぎを与えることこそ、神様あなたが神様らしくあることではありませんかと迫っているだけのことです。これは、「神様らしく〜」に止まりません。夫に対して、私の夫ならもっと夫らしくしてと言う。親なら親らしいところを見せてほしいと言う。周りの人々に、いつも「〜らしさ」を求めて止まないのかもしれません。むしろ、日々人々に「〜らしさ」を求めて止まないところが行き着いて、神様らしくと言って神を試すことになっているのが実際なのかもしれません。 マタイによる福音書は明らかに、4章と22章を重ねて記しています。そっくりだということを読者に訴えています。悪魔の誘惑は荒れ野においてだけではないのだと言います。主の御生涯の最初と最後においてだけ起こったとも言いません。主が真理に基づいて神様の道を教えられた間中、いつでもどこでも起こっていたことだと申します。それは、だれにたしても、〜らしく〜らしくと求めてては、試してしまう私たち自身の問題です。・・・略・・・
 主は悪意ある偽善者たちを、その場で滅ぼすようなことはなさいませんでした。即座に追い出すこともなさっていません。むしろ、そんな悪意の偽善からの質問に答えられました。皇帝のものは皇帝にと言われましたが、それはヘロデ派に賛成なさったのではありません。あるいは、ファリサイ派のように、妥協して税を納めよと言われるのでもありません。そうではなくて、皇帝がはばかられたり、人の顔色がを見ざるをえないこの世において、そこで、自由になれる道を示してくださったのであります。この世の支配者の言いなりになったり、世の人々の顔色を見ざるをえなかったりするわたしたちに、主は自由の道を拓いてくださいました。内心、じくじたるものを抱えて暮らす者に、主はそのわだかまりを解いてくださるのであります。
 主は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」といって、割り切れと言いわれるのではありません。そうではなくて、皇帝をもその支配下に置かれる神様ということをおっしゃっています。すべ治めたもう神様の下にあると信じるなら、たとえ今皇帝が高圧的に税金を求めてきても逃げ出さなくともよい。そんな神の子の自由が私たちにも与えられているのであります。

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