札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「もだして待つ」
ルカによる福音書1章5節〜25節
牧師 堤 隆
− 11月29日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(12月号)

 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
1:8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 ザカリアは非の打ち所のない、正しい人ではありましたが、その人生には暗い陰を負っていました。子どもが与えられていませんでした。ユダヤ人にとっては、子どもは目に見える神からの祝福でした。それが、神に仕える名門祭司の家系にありながら、子どもが与えられていませんでした。「祭司ともあろう者なのに」という冷たい視線を受けてきたでしょうし、自分自身でも、神は自分にそっぽを向いてしまわれたのかと思ったとしても不思議はありません。私たちでも、何の落ち度もなくやってきたのに、いわれのない辛さを経験しなければならないことがあります。失敗の理由が自分にあるというのであれば、まだ納得して耐えられるかもしれません。それが、何の心当たりもないままに辛さだけを抱えることになれば、不条理を感ぜざるをえません。      (中略)
 そんなザカリアの陰に一筋の光が差し込みます。二万人以上はいたという祭司の中から、くじで一人だけ当たる務めに就くことになりました。神殿の聖所で香ををたくこの務めに就くことなく逝去する祭司が多かった中においてでした。ようやく神は自分の方を向いてくださったと思われたはずです。ところが、実際にこの務めに就くやいなや、ザカリアは「不安になり、恐怖に襲われた」と言います。天使が現れたためでした。天使も祭司も、ひたすら神に仕える者です。なのに、どうして祭司ザカリアは、天使ガブリエルを恐れたのでしょうか。非の打ち所のない正しい人・ザカリアでしたから、祝福のしるしである子どもが与えられなくとも神を呪うことはしませんでした。しかし、全く不満を持たなかったということではなかったはずです。辛さの原因は神にあると言いたくなることしばしばであったろうと思われます。しかし、ザカリアはその不安と不満とよく戦って、非の打ち所のない正しい人であり続けてきたのでした。ところが、自分は主の掟と定めとをすべて守っているのに、神様は自分にそっぽを向いておられるという思いを、澱のようにして心の底に貯めていることが、天使の出現によって、明るみに出されるとしたら、それは恐れざるをえません。それまでの不信仰との戦いの緊張が一気に崩れて、恐ればかりが募ったとしても不思議はありません。
 そんなザカリアに天使は「恐れることはない。〜あなたの願いは聞き入れられた」と言いました。祭司の祈りは民全体に関することでなければなりませんでした。それを「あなたの願いは聞き入れられた」と告げられました。しかも、人生の暗い陰を負うあなたが喜び楽しむようになれば、それはあなた一人だけでなく、他の多くの人々の喜びともなるというのでした。理不尽に苛まれる多くの人々の下にも喜びの光が差し込むとのお告げでした。(中略) ところが、こんな慰めを与えられながら、ザカリアは「何によって、わたしは、それを知ることができるのでしょうか」と言ってしまいました。自分には分からないと言いました。「わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と言うザカリアの常識と神の言がぶつかり合ったからでした。喜ばしい神のみ言を拒むザカリアは、これまでやっとのことで抑えてきたところの不信仰を晒してしまいました。そのために、ザカリアは「口がきかえなくなり、話すことができなく」されました。世界で最初のアドヴェントは、不信仰な者が黙らされることから始まりました。しかし、それは裁きではありませんでした。「この事の起こる日まで」のことと言われています。不信仰名者が、神の救いを待つには、もだして待つ以外にないからでした。     (中略)
 ザカリアが口が利けなくされたのは、罰ではなく、神に抗弁する者にも尚、真実に慰めと喜びを与えようとの神のご配慮でした。ですから、もだして神を待つ者は、期待はずれに終わることはありませんでした。「その後、妻エリサベトは身ごもって」といいます。天使が告げた神の約束のことばは確かに成就したと聖書は告げます。待降節のこの時、私たちも神の救いのみことばは、ひとたび語られたら、無為に終わらず必ず実現すると信じたいと思います。もだして神を待ちたいと思います。  

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉