札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「きよし この夜」
ルカによる福音書2章1節〜20節
牧師 堤 隆
− 12月20日(日)クリスマス礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(1月号)

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  キリスト誕生が「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布に来るんで飼い葉桶に寝かせた」(6〜7節)と報じられています。救い主の誕生というのに、たったこれだけです。しかも驚くことに、聖書の中でマリアがみ子を産んだ様子を語るのは、ルカによる福音書のこのところだけです。新約聖書の中には主の後生涯を描く福音書は4つありますが、マルコ福音書にはクリスマスの記事そのものがありません。ヨハネ福音書はクリスマスの意義は語りますが、様子については述べていません。クリスマスの様子を告げるのは、ルカとマタイですが、マタイ福音書にしましても出産の様子そのものは語られません。ですから、マリアが主を生んだ様子を語るこの箇所は大変に短い者ですが、貴重な唯一の証言ということになります。どうして、聖書はマリアのキリスト出産についてこれほど口数が少ないのか。   −中略−
 聖書はクリスマス自体が静かに起こったと言いたいようです。全世界を巻き込む住民登録の陰で、「泊まる場所」もない世界の片隅で主はお生まれになったと告げています。しかも、時は「夜」(8節)でした。昼間、人々は忙しく立ち働いていましても、夜ともなれば静まりかえりました。それで、キリストが間近でお生まれになっても、誰一人気づく者はありませんでした。
お迎えすることもありませんでした。私たちも、忙しさや何かにかまけていたら、キリスト誕生に気づけなかった町の人々と同じになってしまいます。そんな中で、唯一知らされた者たちがいました。それが、町の外で野宿をしていた羊飼いたちでした。(8節以下)彼らはベツレヘムの町の中ではなく郊外にいましたから、だれかが町で子どもを生んだということに気づけるはずもありませんでした。しかし、この夜、キリスト誕生を最初に知ったのはこの羊飼いたちでした。気づこうとすれば気づけたはずの町の人々ではなく、町の外にいて(住民登録の対象にもならず、全くの部外者であった)、気づけるはずのない羊飼いたちに、真っ先に知らされました。これは、クリスマスはすでに起こったことであるけれども、知らされることがなければ気づけないということです。ここに私たちが礼拝をもってクリスマスを守ることの意義があります。クリスマスはすでに2000年前に起こったことです。しかしそれで、み子をお迎えしたことにはなりません。神様からのことばによって、クリスマスを知らされなければ、主をお迎えすることは出来ません。−中略−
 町の中に泊まっていたわけではなく、外で働いていなければならなかった羊飼いたちは、町でどんなことがあったとしても、どうせ自分たちには関わり合いはないと心を閉ざす者たちでした。
しかし、そんな羊飼いたちのところにクリスマスのしらせは飛び込んで来ました。全く期待もしていなかった者たちのもとに、真っ先に届けられました。このことは、私たちがよく知って置かなければならないことだと思います。羊飼いたちは、何があっても俺たちには関係ないというこころを託つ者たちでした。しかし、そんな者たちのもとにクリスマスの知らせが真っ先に届けられたからです。このところが、私たちに関わり合います。こんな思いは人に見せるわけにはいかない。日記にも書くことは出来ない。醜い思いを抱えている。 つまらないことで悩み続けている。どうして、こんな愚かなことを自分はしてしまったのかと鬱々と過ごしている。・・・とても、キリスト誕生の祝いに出られるような者ではないと思われてしまいます。しかし、そんな私たちのもとにこそ、クリスマスの知らせは届けられていると聖書は言います。この告知を聴かなければ、受け入れなければ、本当のクリスマスに気づけません。誰にも言うことの出来ない、顔を上げることも出来ない心にも、クリスマスの訪れは届けられています。 
 神様は、このクリスマスの福音を今こそ聴けと言っていてくださいます。クリスマスは12月25日だけのもの、12月20日だけのものとしたくありません。普段の私たちの、日ごとの歩みの中で、この良き知らせを聞き取り続けて行きたいと思います。


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