札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「羊と山羊を分けるように」
マタイによる福音書25章31節〜46節
牧師 堤 隆
− 2月28日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(3月号)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主は再臨の教えの最後に、羊飼いが羊と山羊を分けるように右と左に分けるとおっしゃいました。主は、右側にいる羊に当たる正しい人たちに、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ〜てくれたからだ」と言われます。ところが、当の正しい人たちは「いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどがかわいておられるのを見て飲み物を差し上げましたでしょうか」と答えています。自分たちはそのようなよいことをいつしたのか、覚えていないというのですから、なんとも軽やかでです。若いころの私は、再臨・最後の審判というと、何となく暗いような怖いような思いを抱いていましたから、このところがとても気に入っていました。それに、少しでも人に良いことをすれば、「してあげた〜してあげた」と自慢したくなる自分ということにも、ここから気づかされていました。ところが、この右側の人たちときたら、人に良いことをしているのに、さっさと忘れてしまっています。自分を誇るところがまるでありません。これはきっと、いつも人に良いことをしてあげているから、ひとつひとつ覚えていられないということなのだろうなとも思って、心引かれていました。ところが、今回改めて、このところを読み返して、これまでの読み方が一変させられました。困っている人、弱い立場の人に親切にしてあげても「してあげた〜してあげた」などと言わないで、そんなことはすぐに忘れてしまうほどに、次々に親切をしていく、そんな親切の名人、人助けの達人になりなさいというような教えではないのではないかと思われるようになりました。たとえば、「牢にいたときに尋ねてくれた」ということなど、とても親切・人助けということではできないことです。この当時、牢に入れられたからといって衣食があてがわれる保証はなかったといいます。外からの差し入れがなければ、生きていくにも事欠いてしまったようです。しかも、牢に入れられるというからには、何らかの犯罪の容疑をかけられているいるわけですから、そんな容疑者に差し入れをする仲間かと疑われてしまいます。牢にいる人を尋ねれば、自分に危険を招くことになります。これはもう親切や人助けの話ではなくなります。
 それなら、何の話か。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)というのは、主イエスの兄弟=弟子が親切にしてもらうことが言われています。弟子たちが伝道に遣わされますとき、世話や親切を受ける。それはキリストを運んできてくれたからです。それを主は「わたしにしてくれたこと」と言われます。ところが、それなら、主の弟子たちに世話や親切を与える「お前たち」(35節)と呼ばれている人たちとは、だれのことか。少々ややこしいことになります。私たち教会に集う者たちは、主から「わたしの兄弟」と呼んでいただいている者です。そんな私たちとは別に、羊・右側にいる人たち・正しい人たちがいることとなって、よく分からなくなります。そこで、よく分からなくなる原因を考えてみました。私たちはいつも自分を羊であって、ファリサイ派の人々のような山羊ではないと思いこんでいるところがあるのではないか。だから、よく分からなくなる。・・・中略
 主は「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)と言われます。それは「すべての国の民」(32節)のはずです。ところが、それが裁かれる山羊と化してしまっていました。このところで「山羊」と訳されている語は、他の用例では「こ山羊」を指します。屠殺され食べられるか、犠牲の供え物とされるこ山羊をもっぱら表現します。主はすべての国の民が山羊と化してしまっているのを見て、御自分が殺されて犠牲の供え物となって、すべての国の民を羊にしようとされました。それで、主はここで「それでもあなたがたは、今後も山羊のままでいようと言うのか、わたしはすべての国の民を羊にしたいのだ」と明言しておられるのだと思います。今や羊とされた私たちです。軽やかに伝道に励みたいと思います。


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