札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「復活、恐れと疑いを越えるもの」
マタイによる福音書28章1節〜10節、16節〜20節 
牧師 堤 隆
− 4月4日(日)復活節主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(4月号)

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 二人のマリアは安息日が終わると飛び出していきました。安息日の間は掟に縛られて身動きがとれなかったからです。二人のマリアがお墓を見に行きますと、大きな地震が起こりました。それは自然現象ではなく、天使が現れてお墓を塞いでいた大きな石を動かしたからでした。このお墓に付けられていた番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」といいます。番兵は兵士ですから、これまでにも幾度となく、人が傷つけられたり、殺されたりという悲惨な現場に立ち会ってきたはずです。それが、震え上がり死人のようになったというのですからこれまでにない恐怖にとらわれたものと思われます。天使の出現とその業という神の働きに恐れをなしました。二人のマリアも恐れました。天使は彼女たちに「恐れるな、あなたがたは」(直訳)と言いました。あなたがたは、もうあの番兵たちのように、恐れなくてもいいのだと告げるのでした。そして、恐れなくともよくなったのは「あの方は死人の中から復活された」からだと言いました。二人のマリアは神様の働きを見せていただいたうえで、主の復活を弟子たちに伝える使命を与えられました。
 二人のマリアはこのことに「恐れながらも大いに喜び」ました。全く相反する感情が同時に彼女たちに湧いてきました。ときに、泣き笑いということを経験しますが、これと似ています。教会でも、「畏れをもって感謝します」と祈られます。罪の自分が神様の前に祈ることなどできないと畏れいっている。しかし、同時に当の畏れる相手の神様が祈ってよいと言っていてくださる。そこで、畏れをもって感謝しますということになります。二人のマリアの恐れと喜びとは、どのようなものであったのか。天使は「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言いましたが、彼女たちはそんなことは気にも留めていませんでした。お墓にいったのも、葬られた主の遺体はどうなっているかと案じられたからでした。天使がそこのところを指摘するものですから、彼女たちは恐れました。主がかねて言われていたとおり、復活が起こるなどと信じていないことを指摘されて、自分たちの不信仰を恐れました。しかし、そんな不信仰な者が赦され、使命さえ与えられて、「恐れながらも大いに喜び」ました。主のみことばを信じきれずにいたのに、赦され、もう一度使命に生きられるようにされたからです。お墓を見ることにしか関心がなかったのに生きる目的が与えられたからです。
 さて、この場面を書いているマタイは、二人のマリアのことを記しながら、当自分の属する教会の人たちのことを考えていたはずです。復活の主と直接に相まみえることのない人々に、この場面を書き送っています。二人のマリアたちの次の第二世代の人たちは復活の主とお会いすることに疑問を抱き始めていました。それを「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)と言ってほのめかしています。十一人の弟子たちの中の一部の者が疑ったのではありません。直訳しますと「ひれ伏した。しかし、疑った」となります。十一人の皆に、ひれ伏す思いと疑いが同居していたということです。二人のマリアと同じで、拝する思いと疑いという全く相反する思いが同居していました。二人のマリアは「喜べ」(9節の「おはよう」の直訳)とのみことばによって恐れと喜びから、喜び一本へと移されました。それと同じように弟子たちも主のおことばで一本化されました。ひれ伏し、疑うところから、ひれ伏すこと、即ち礼拝すること一本に絞られていきました。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」との使命を与えられることによって、疑いを取り去られました。
 その上さらに、主は「すべての日々を、世の終わりまで、共にいる」(20節直訳)といわれました。懐かしいばかりの故郷「ガリラヤ」でというのではなく、日常の暮らしを続ける「ガリラヤ」におけるすべての日々を、世の終わりまで共にいると約束してくださいました。わたしたちも、ここ札幌において、主のみことばに聴いて福音宣教の使命に押し出されて行きたいと思います。


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