札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「悲しみの主を見つめて」
マタイによる福音書26章36節〜46節 
牧師 堤 隆
− 4月25日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(5月号)

 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主は出エジプトを記念する過越の食事をご自分の十字架を記念する晩餐へと変更されますと、祈るためにゲツセマネに行かれました。すると、「悲しみ、もだえ始められ」ました(37節)。この「もだえる」という語は「いない+田舎」という合成語です。田舎・故郷という自分の本来あるべき所にいられない辛さを表します。それで、もだえ始められたようです。もっと生きたいのに十字架に架かって死ななければならないので、悲しみもだえ始められたのではありません。主は「わたしは死ぬばかりに悲しい」(38節)とおっしゃっています。「死ぬのが悲しい」とはおっしゃっていません。「わたしの魂は死ぬほど悲しい(直訳)」です。生きていくのが、死ぬより辛いときがあります。主はそれを死んで楽になりたいと言われるのではなく、死ぬより辛いことを、まともに身に負ってもだえられるのでした。それで「突っ伏してしまわれる」(39節、「うつ伏せになり」の直訳)のでした。
 では、主はどのようなことを、死ぬより辛く身に負っておられるのでしょうか。主の晩餐のとき主は十字架を負うことを「罪が赦されるように、多くの人のために流される
わたしの血」(28節)と言われました。この「多くの人の罪」というのは、大勢の人のというよりも、人皆、一人一人の罪のことです。弟子たちは主が裏切りということを言われますと、みな「まさかわたしのことでは」(22節)と言いました。私たちでも、日頃の生活の中で、ときに人のことをないがしろにして自分を優先することはあるのではないでしょうか。実際のこととして否めません。私たちが実際に人の信頼を裏切ってしまうということがあって、それが極まって主イエスに対する裏切りとなったことは否めません。普段はエゴイズムをむき出しにすることはないかもしれません。しかし、ひとたび損害を被るかもしれなくなったら、自分は損をしたくない自分を守りたいと思うのではないでしょうか。だれも守ってはくれない、世の中はそういうものだから、自分で自分を守るしかない。そんな思いが裏切りを引き起こすようです。
 私たち自身の中に、神様に頼りきれない思いが潜んでいるからかもしれません。世の中、最後は自分だ、だれも助けてはくれない、自分しか頼りにはできないのだというのでは、神に頼らない、神を当てにしないのですから、これは聖書の言うところの「罪」です。神は肝心なときに当てにならないとか、信用ならないというのでは信仰になりません。ゲツセマネで主が戦われたのはこの罪、不信仰とでした。それは具体的に「誘惑」(41節)というかたちをとりました。神に仕えるか、自分に仕えるかという誘惑です。睡魔と戦えるかという程度のことではありません。この誘惑は、主の祈りの中で「こころみにあわせず」と祈っています「こころみ」と同じ語が当てられています。試みを避けるのではなく、これに負けることのないようにわたしがまず戦ってあげるから、あなたがたは「目を覚まして祈っていなさい」(41節)と言われました。主の祈りを与え直されました。
 「心は燃えても、肉体は弱い」(41節)という主のおことばを私たちはなんと多く言い訳にしてきたことでしょうか。「三日坊主」は肉体が弱いからそうなるのでしょうか。主は、ここで言い訳を与えられるのではありません。
ここは「心と体」ということではなくて、「霊と体」のことが語られています。霊は神様から注がれるものですから、聖霊です。肉は心と体をあわせ持つ人間のことです。そこで、「燃えて」と訳される語は「前向きの」(直訳)です。聖霊は前向きであるのに、神に背く人間は弱い。だから、弱いあなた方は前へと引っ張っていってくださる聖霊に祈ったらいいと言ってくださるのであります。
 そうしますと、「目を覚まして祈っていなさい」と言われる真意が見えてきます。もう、眠気と戦うために祈れといわれるのではないことは明らかです。一人一人の罪にもだえながらも、これと戦い祈る主とともに祈れと言われるのでした。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(46節)と促される主に従ってまいりたいと思います。


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