札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「罪のない人の血を」
マタイによる福音書27章1節〜14節 
牧師 堤 隆
− 5月30日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(6月号)

 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  主は総督ピラトから「お前がユダヤ人の王か」と尋問されますと、「それは、あなたの言っていることです」と答えられました。回りくどいような言い方をなさいました。このような答えはこれで三度目です。ユダに対するお答え、大祭司カイアファに対する答えにつづいて三度目です。いずれも、間接的に肯定するものです。直接的な「はい」という答えではない。ということは、このとき主は、「そうだ、私はローマに反旗を翻すユダヤ人の王である」とお答えになるのではなく、「私はあなたが言っているのとは違う意味でユダヤ人の王である」と、間接的に肯定するお答えをなさったことになります。
 この「ユダヤ人の王」は、マタイ福音書ではすでにクリスマス物語において、主イエスの肯定的な呼び名として出てきていました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は」、「わたしの民イスラエルの牧者となる」との預言によるとありました(2章)。主ご自身も神の民の牧者としてユダヤ人の王であると自覚なさっていたはずです。ところが、この「それはあなたの言っていることです」とのお答えを最後に、以後何もお答えにならなくなってしまわれます(12,14節)。もう何を言っても無駄だというので諦めてしまわれたとか、抵抗する力も無かったからというのではありません。26章53節では天の軍勢を呼べば、父なる神はすぐにでも送ってくださるであろうと言われました。しかし、その力を、十字架に向かうこのとき使わないのだとも言われました。ピラトの裁判において、黙して答えられないのは、このご自分の力を抑制さったことになります。政治や宗教の力をご自分の力でねじ伏せることを放棄されました。暴力と化した政治、また権力を盾に取る宗教に対して、それらと同じような力で圧倒することを放棄して、ユダヤ人の王となろうとされました。教会も「新しい神の民」です。私たちの教会にも、イスラエルを牧し養う王が与えられています。
 マタイはこれを明らかにするために、ユダの一件を挟んでいます。ユダに対しては、ユダヤ人差別の理由に担がれたかと思うと、逆に十字架が起こるためにだれかが引かなければならない貧乏くじを引かされて気の毒だといわれたりします。しかし、マタイ福音書はそのどちらとも言っていません。むしれ、ここではユダの発言を全面に出しています。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4節)。「罪のない人の血」ということが重大であると言います。あえて申しますなr、ユダが自分は罪を犯したと言って後悔したことなどは、二の次といった様子が窺えます。あくまでも、罪のない人の血が十字架に流されることが重大であるとマタイは言います。すべての者が神の民とされるには、政教一致して神をないがしろにするその罪が滅ぼされる以外にない。そのためには、罪のない人の血が流されねばならなかった。
 ユダの罪の告白よりも、罪のない人の血が流されたことが、第一に大切なことです。主を否んだペトロがいくら激しく泣いても、裏切ったユダがお金を返しに行っても、罪は如何ともしがたいものでした。ユダは後悔してお金を返しにいきましたが、受け取ってもらえませんでした。逆に「お前の問題だ」(4節)といって突き返されてしまいました。これは、お金の問題を言っているのではありません。罪は、泣こうが、後悔しようが、お金を返
そうが、如何ともしがたいという問題を言っています。ピラトの口をとおして、ユダヤ人全体に向けても「お前たちの問題だ」(24節)と言わせています。罪のない人の血の責任は、お前・お前たち自身のものだとマタイは読者に訴えています。しかし、糾弾するのではありません。泣いても、後悔しても、取り返しがつかないし、赦されようはずもない罪が、罪のない人の血によって赦される。私たちの教会も、この罪のない人の血によって清められ、牧され、養われてまいりたいと思います。


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