札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「十字架をむなしくしないために」
コリントの信徒への手紙 I 1章10〜17節
牧師 堤 隆
− 7月25日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(8月号)

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 コリント教会の中のごたごた・張り合いに対して、パウロは「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」(17節)と慎重な警告をします。当人たちがまだ気づいていないような問題を見抜いてのことです。この「むなしいものになってしまう」というところは、直訳すれば「空っぽにする」となります。主の十字架を空っぽにするとはどういうことか。12節に「わたしは〜につく」と繰り返されていますが、これは「〜のもの」と読めます。帰属する、帰依するという言い方です。最近ではあまり聞かれなくなりましたが、「わたしは〜先生の教会に行っていた」という言い方がありました。自分は有名な先生の感化を受けたことを誇る気持ちを言い表しました。たわいもない自慢話のように思われますが、しかし、パウロはそこに重大な問題があることを見抜きました。十字架を空っぽにしてしまうほどに重大な問題であると言います。
 その一例として「わたしはキリストに」という人たちもいたというのですが、この人たちもほかの人たちと張り合っていました。そして「キリストにつく」と言って、キリストのことを張り合う材料にしてしまいました。それは十字架のキリストを引き下ろすことになります。人と人との張り合いに引き下ろして、ごたごたに巻き込んでしまう。それが、キリストの十字架を空っぽにすることでした。十字架による救いをむなしくしてしまうことでした。
 人と人とが暮らすとき、全く仲たがいせず、いつも仲良くやっていけるかというと、そうとは限らないのではないでしょうか。夫婦の間、家庭において、学校や会社、教会においても、手放しで良好な人間関係が築かれていくとは思えません。下手をすると、どこでもキリストの十字架を空っぽにしかねないのだとパウロは注意を促します。これは夫婦の間のことだから、内輪のことにしておこうといって納めるなら、キリストの十字架を夫婦の間から閉め出すことになります。どんな些細なことでも、内輪のことであっても、教会仲間のことであっても、何かごたごたしたことが起こったとき、キリストの十字架による和解を信じる。十字架を抜きにして解決を図るなら、それは十字架を空っぽにすることになります。私たちキリスト者にとりましては、だれとの間にもキリストの十字架が間に立てられています。教会の外の人との間にもです。だれかと張り合ってみたり、ごたごたしたりしてしまうとき、いつでも私たちはキリストの十字架に立ち返らなければならないのだと思います。いや、立ち返ることが許されています。相手はまだいきり立っている。こちらはどうしたら良いのか分からない。そういうことは、いくらでも起こってきます。だれかに間に立ってもらうしかありません。ところが、仲立ちしてくれる人が、いつも成功するとは限りません。仲たがいを余計にこじらせてしまうことだってあります。そういう危うい人間関係の中で、私たちキリスト者は十字架のキリストという仲立ちを与えられています。人間がもっともこじらせてしまった神との関係をキリストの十字架が和解へと至らせました。「キリストの平和」が十字架によって打ち立てられました。このキリストの十字架という最高の和解をもってして、解決できない仲たがいはないと私たちは信じることができます。そう信じて和解の道に一歩を踏み出すことができる幸いが与えられています。
 そこで、勧告の内容がはっきりしてきます。「皆勝手なことを言わず」というところは、直訳すれば「皆ひとつのことを言いなさい」となります。上から命令したり、号令をかけているのではありません。全体主義的な「ひとつ」を言うのでもありません。同じひとつのことを言うとは、教会では信仰告白をすることです。心をひとつにし、思いをひとつにすることも、信仰告白から生まれます。具体的には「仲たがいせず〜固く結び合う」ことができます。ここは「裂け目がないように、繕う」とも読めます。網を繕うという語が当てられています。失敗しても、破れても、キリストの十字架によって繕っていただける。この恵み・幸いを携えてこの週も歩んでまいりたと思います。


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