札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「キリスト者の自由」
コリントの信徒への手紙 I 6章12〜20節
牧師 堤 隆
− 10月31日(日)宗教改革記念日主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(11月号)

 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  本日の説教題は宗教改革者マルティン・ルターの著作名と同じになりました。聖書の内容からつけましたところ同じになりました。今日は宗教改革記念日ですから、かえってふさわしいと思いそのまま用いることにしました。ルターが「キリスト者の自由」と言いますとき、この世には通用しないキリスト者の間だけの自由と言うのではありません。不自由の最たるものである罪、その罪から解放され自由にされたのがキリスト者ですから、キリスト者の自由と言います。ですから、神様に作られたときの健やかの人間の自由のことです。健やかな真の人間の自由が、キリスト者に与えられているのは、特権と言えば特権です。
 ところが、コリント教会の人たちはこの特権を勘違いして、自分で身につけた自由であるとして自分を誇ってしまいました。相撲の「勇足」を踏み出したようなものです。その勇み足をする者たちの発言をパウロは二度繰り返して引用しています。「わたしには、すべてのことが許されている。」余程警戒し、警告もしたかったようです。「しかし〜しかし〜」と反論しています。最初の反論は「しかし、すべてのことが益になるわけではない」です。何でも自由なら、自分のやりたい放題、わがまま勝手でもいいと勘違いしたのでこう言いました。わがままが当人の益になるはずがない。その一方で、わがままに気づいても、それならそのわがままを殺さなければならないといって禁欲主義が生まれたようです。それで、「しかし、わたしは何事にも支配されない」と反論しています。欲や罪に支配されない自由だと言います。
 キリスト者の自由は放縦でもなければ、禁欲でもないというのなら、本当の自由とはどういうものか。10章23節にはこの6章12節と全く同じ勇み足発言が、これまた二度引用されています。前半は同じですが、後半の反論が異なっています。「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」この「造り上げる」と訳されているところは「家を建てる」という語が当てられています。家は互いの部分が組み合わされて建て上げられます。ここでは、共同体・教会を建て上げることを言っています。それは、建物、組織というよりも共に生きられるようになることを言っています。パウロは他の人と共に生きられるようになることが、第一に自由になることだと言います。
 コリントに教会が建てられたということは、ただ建物が立った、人の集まりができたというだけではなくて、何よりもキリストの復活によって真の人間、自由にされた人間、健やかな人間の共同体が生み出されたということでした。それで、パウロは勇み足で自由から踏み出してしまうコリント教会に対して、「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか」といって迫りました(15節)。ここは原文では「わたしは〜するだろうか」という表現になっています。コリント教会の人々に、わたしはそのようなことをさせるわけにはいかないと言っています。勇み足をなんとか留めようとしています。「主と結びつく者」(17節)にそのようなことをさせられないというパウロの強い決意が窺われます。この「結びつく」は「膠(にかわ)」という言葉を語源としています。わたしたちは「主と膠で堅くくっつけられている者」ではなかったのかと喚起しています。
 今の私たちも、欲望もありますし、なお罪も引きずっています。それで、ひとと共に生きることが難しくなったりします。わがままは、どうしてもひとと共に生きることを難しくします。そのままでいいはずはありません。私たちはひとたびキリストに膠でくっつけらた者です。終わりの日に、罪から完全に解かれるとの約束に生かされている者です。そうでありますから、今からすでに罪から自由にされながら歩むことが許されています。
 「あなたがたの体は、神からいただいた〜神殿であり〜自分自身のものではない」(19節)と言います。罪の中から買い取られたからです(20節)。主の十字架によって買い取られて、聖霊の宿る神殿とされました。それほどまでに自由な人間とされました。この自由をすべての人に証してまりたいと思います。


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