札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「侮辱の果てに」
マタイによる福音書27章27節〜44節 
牧師 堤 隆
− 6月27日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(7月号)

 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主の十字架の苦しみの中身は何であったのか。刑の過酷さ、肉体的苦痛はもちろんあったはずですが、それよりも十字架の意味・本質をマタイは伝えることに専念しています。27節以下に十字架の中身が語りだされていますが、「侮辱した〜ののしり」と言う言葉が繰り返されており目に付きます。また、主に王様の姿を模した道化師のような格好をさせています。マタイの口ぶりは「十字架の中身といえば、それは侮辱の言葉と業に溢れている」というところです。マタイはこれをどうしても伝え訴えたかったようです。
 第三受難予告において主は異邦人によって侮辱されると告げておられました。それが、27章でローマ皇帝に模される姿となって実現しました。「赤い外套を着せ」とありますが、その外套そのものは、ローマ兵が肩に掛けて使った短いものです。それが赤色であったところから、皇帝の赤紫のローブに見立てられました。その上で、「ユダヤ人の王、万歳」とはやし立てました。「こんなユダヤ人が王なんだとさ。ローマ皇帝にも並ぶ王なんだとさ。」というところです。ローマ帝国の皇帝は、王の中の王でした。帝国というのは、いくつもの国を従えるものですから、皇帝の下には幾人もの王がいました。だから、王の中の王でした。主は侮辱されて、このローマ皇帝の格好をさせられたのですが、中身ということでは当たっています。主イエスこそ、王の中の王、全世界の王であられるからです。
 しかし、十字架に居合わせた者たちは誰一人、主を王の中の王とは認めませんでした。逆に「自分を救え」=「自分のことさえ救えないで、よくもメシアと言えるなあ」とののしるばかりでした。ここでは「神の子なら」ということも繰り返されています。マタイによる福音書では、すでに四章で繰り返されました。荒れ野でサタンが主を試みた時です。「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ〜神の子なら、飛び降りたらどうだ」と。あのサタンと同じことを、十字架の主をののしる者たちが口にしました。これはもう、人がサタンとかしているということに外なりません。人がサタンと化して、神の子を侮辱している。・・・子どもは、親なら親らしいところを見せろと言わんばかりに求め、親も、子どもなら子どもらしくしろという素振りを見せる。これは、親子の間に限らないと思います。どこにあっても、人を非難する時には「〜なら」と言って始めます。「〜のくせに」と口汚くののしるかもしれません。親のくせに、先生のくせに、何とかのくせに、・・・しばしば耳にするところです。これが、もし教会の中に持ち込まれたら、牧師のくせに、長老のくせにとなってしまいます。この「〜くせに」が行き着いたところが十字架の侮辱です。「神の子のくせに」と言うものは、「そうすれば、信じてやろう」と言いました。「〜のくせに」と言うなら、それはどこまでも自分中心になっていくということのようです。神の子に対してまで、自分の意に沿うなら、信じてやろうという態度に出てしまう。
 「信じてやろう」とは、なんというののしりでしょうか。真の王の王、神の子が、人間から下に見られて侮辱されています。ところが、この侮辱に対して主は一言も反論なさいませんでした。口汚いののしりにあきれて諦められたからではありません。主はこの侮辱に沈黙でお答えになっています。主はご自分のことを救おうとなさいませんでした。ご自分を救うことを放棄して、ひとを救うことを選択されました。それが神のみ心であると信じてのことでした。自分のことではなく、ひとを救う王こそ、真の王・神の子であることを明らかにされました。人を侮り、神のみ子をののしり、神をも従えようという罪人の救いのために、主は黙して十字架に架かってくださったのであります。ここには、主の十字架を負ったキレネ人シモンという人のことも報じられています。主が負ってくださった十字架は、シモンが負ったことでも明らかなように、私たち一人一人が負うべきものだったのだとマタイは訴えています。


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