札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「キリストの思いを抱いて」
コリントの信徒への手紙 I 2章6〜16節
牧師 堤 隆
− 8月22日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(9月号)

 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもので、この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 パウロは神の知恵には目的があるといいます。神の知恵は「わたしたちに栄光を与えるため」(7節)のものであると。神様は人間に、ご自分の栄光を与えようという考えをずうっと秘めて保ち続けてこられた。どれくらいかというと「世界の始まる前から定めておられた」(7節)といいます。神様は天地創造以前から、人間を造ったらご自分の栄光を与えようという考えを温め続けておられた。何という有り難い、幸いな奥義でしょうか。わたしたちに栄光を与えることが、神様の永遠の決意であったとパウロはどれほどの感謝の思いを込めてこのところに書き記したかと思われます。
 神様の栄光が与えられると言われましても、あまりピンとこないかもしれません。神様がまばゆいほどに輝いておられるように、わたしたちも照り輝き出すとも思われません。この神の栄光という言い方をたどりますと、ヒブル語のカーボードに当たることが分かりました。カーボードの第一義は「重さ」です。神の栄光といえば、何よりも神の重さのことを言うようです。神はなによりも重く見られ、尊重されるべきお方であるということです。それを神様はご自分の重さを人間に与えようとお考えになりました。人をそれほど重い存在としてお造りになったのでした。今の時代、人間がどれほど軽く見られ、軽く扱われているかは、厭と言うほどに見せつけられています。それは、やはりわたしたち一人一人が神の栄光、神の重さを与えられていることが見失われているからではないかと思われます。
 神様が人にご自分の栄光を与えようとされることを、パウロは「神の知恵」と言っていましたが、人々はこの神の知恵を理解しなかったと指摘します。その最たる証拠は「もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(8節)といっています。「栄光の主」ですから、「重い存在である主イエス・キリスト」です。栄光の主を十字架につけたことは恵みの奥義を理解しなかった最たる証拠である。「栄光の主の十字架」という言い方をして、七節で神の知恵の目的として語った「神がわたしたちに栄光を与えるため」ということと関連づけています。神様が栄光を授けてくださるのなら、私たちはそれを光栄として受ける以外にありません。「わたしの栄光を与えよう」と言われたら、「光栄です」といってお受けするほかはありません。それが、健やかな関係というものです。ところが、コリント教会に現れた自称「完成者」たちは、神の栄光を自分の栄光と思い違いをし、自分を偉くしてしまいました。そうして、自分のことも神様のことも軽くしてしまいました。そこで、神様はそんな栄光を受け取り損ねている者たちのところに、「栄光の主」をお遣わしになりました。もう一度栄光を与えるために、主は栄光を携えてやってきてくださいました。
 それなのに、この神の知恵を理解しない者たちが栄光の主を十字架につけてしまいました。しかし、神の栄光が十字架につけられ、踏みにじられ、葬り去られたかに見えたそのところで、実は神様のみこころが完成されたのでした。これは「神はご自分を愛する者たちに準備された」(9節)ものだったからです。(中略)
 十字架こそ、神を愛する者に備えられた栄光を与えるものでした。罪の者に栄光を与えるためには、罪人のままではふさわしくありませんでした。それで、神様は御子に罪人の罪を負わせ、罪人にはその罪を赦して栄光を与えてくださいました。これこそ私たちがいただいた「栄光の主の十字架」です。しかし、直ちにだれにでも受け止められたのではありませんでした。「自然の人」(14節)には理解されませんでした。素朴な自然児にはということではありません。生まれたままの罪の人にはということです。これに対して「霊の人」には(15節)受け止められました。霊を受け洗礼を授けられて、神の知恵を知ることが許されているからです。
 「キリストの思い」(16節)は何よりも、十字架によってあなたに私の重さを与えようというものです。そうして、神様の前にあなたを重いものとして再び立たせたい。このキリストの思いを私たちの心に抱いて、神を愛する者とされて、立ち上がらせて頂きたいと思います。


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