札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「主が来られるまで、先走らず」
コリントの信徒への手紙 I 4章1〜13節
牧師 堤 隆
− 9月26日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(10月号)

 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  主が来られるまで、先走ってはならないと言います(5節)。私たちも、時に早まって、独りよがりの判断をする事があります。ほかの人よりも、いち早く情報をキャッチしたと勘違いをして、その実思慮が足りなかっただけということにもなります。パウロはだれか一人のお調子者・あわて者に向かってこう言うのではありません。コリント教会の人たちに向かってブレーキをかけるようにこう言っています。「裁いてはいけません」と続けていますから、裁きの時ではないし、裁く立場にもないのに、裁いてしまうことを押しとどめています(4節)。
 こう言わざるをえなかったのは、実際にパウロ自身がコリントの人々から裁かれていたからでした。愚か者、弱い、侮辱されている、と次々にあげられています。こんな言葉が直接、間接に投げかけられていたことを窺わせます。このところに「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて(「〜によって」直訳)賢い者となっています」とあります。パウロは自分たちは、「キリストのために」=「キリストを理由として」、「キリストのためになるように」このようになっていると二つの意味を込めて語っています。コリントの人たちはこれを裁いたようです。キリストのせいで愚かになったり、弱くなったりするのはおかしいと非難したらしいのであります。パウロはキリストの故に貧乏くじを引いていると見られていることにたいして、パウロはそれは先走って裁くことだと言います。私たちも時に「キリストを信じたばっかりに」と言いたくなることがあります。信仰をえたばっかりに、自分さえ良ければと割り切れなくなった。自分を誤魔化すことも躊躇されて、自分が損をしてしまうこともあります。いわゆる世渡り上手にはなりきれない。いつも何かをためらっている。しかし、パウロはそのように自分を裁かなくてもいいと言います。先走った判断をしなくていいと言います。うじうじしなくてもいい。
 パウロは自分たちは、キリストのために「仕える者」、救いの計画の「管理者」とされているのだから、自分で自分を裁いてうじうじすることはないと言います(1節)。これを「召使い」と「番頭」と訳している聖書がありました。キリストに召されて、ご用を委ねられていることがよく分かります。「仕える者」は直訳すると「下で漕ぐ」となります。私には、映画「ベンハー」に出てくるガレー船の船底でオールを漕ぐ奴隷たちの姿が目に浮かびました。
ひたすら仕える者のことを言っているようです。ですから、「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」(2節)と言います。主人に忠実であること以外眼中にない。だから、人から裁かれることも、自分で自分を裁くことも「少しも問題ではありません」(3節)でした。
 そして、裁き主であられる主が裁かれるときには「やみの中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」(5節)。主には隠し事ができないというばかりではありません。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」といいます。私はこのところを読んで驚いてしまいました。自分の秘密や心の一切が明るみに出されたら、自分の汚いところや、申し開きのできないことが明るみに晒されるに違いない。そんなことになったら困り果ててしまう。ところが、パウロは「おほめにあずかります」と言い切っています。自分一人ではなく、「おのおのは」と言います。パウロは主に裁かれることに何の心配もしていません。心配どころか、おほめにあずかることを心から喜んでいます。仕える者、管理者として忠実でありさえすれば、何の心配もいらない。むしろ、忠実さをほめていただけるものと信じて疑いません。...中略 コリントの裁く人たちは「キリストによって賢い者に〜尊敬されています」(10節)と言うのは、痛烈です。「あなたがたは、キリストを用いて、利用して賢い者になっている」と言うのです。おほめにあずかるどころか、キリストを利用して、自分で自分をほめてしまっています。先走っておほめを手に入れたつもりなだけで、実は神様からのおほめでも何でもない。私たちは、このように先走ることなくおほめを望み見て、忠実に仕えてまいりたいと思います。


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