札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「待望の根拠」
詩編130編 1節〜8節  
牧師 堤 隆
− 11月28日(日)待降節第一主日礼拝説教から抜粋 −
「教会の声」説教(12月号)

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 本日から待降節に入りました。申しますまでもなく、クリスマスを待つ時ですが、この頃では何かを待つということが薄れてきているのではないかと思われます。子どもですら何ヶ月も前からクリスマス・プレゼントを心待ちにすることは少なくなってきているのではないでしょうか。今の豊かさは子どもの願いをすぐにかなえることができます。ならば、私たち大人はどうか。満たされているからというよりも、何かを当てにしなくなっていて、待ちにくくなっているのかもしれません。ところが、130篇の詩人は待てない、当てにできない中から神を呼んでいます。「深い淵から、わたしは叫ぶ、ヤーウェよ」(2節、直訳)。この「深い淵」はヒブル語独特の言い方で「深い深い所」と表されています。旧約では五回しか出てきません。たとえば、詩編69:3では「わたしは深い沼に入り込み 足がかりもありません」とあります。この「深い深い所」に落ち込んだら、自分の体を支えるために足を掛けるところさえない。もがけばもがくほど、するずると沈み込んでしまう。それが「深い深い所」の特徴です。130篇の詩人はそんな所から、神ヤーウェに向かって叫んでいます。これは不思議なことです。呼べど叫べど聞かれないところから、そうしているからです。            
 叫んでも、声の届くはずのない所で、神を呼んでいるのですが、しかも、「待ち望んでいます」と繰り返しています(5,6節)。待ち望めるはずのないところで、それでも、「待ち望みます」と繰り返す。こう訳されるもとの語は「伸ばす」とか「巻き付く」という意味を持っています。詩人は「主に向かって伸び上がり、魂は絡みつく」といって叫んでいます。底なしの深みから声を振り絞って、なお真剣に神に絡みつく。それは2節にもよく現れています。「聞き取ってください〜耳を傾けてください」。これは単なる執拗さではありません。こんなに願っているのだから神も聞くべきだといった厚顔ではありません。3節では「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう」と言っています。神様に顔向けできるような者は一人もいないと言っています。他の聖書の訳では、「あなたが罪を数えられるならば」とか、「あなたが罪を書き留めるなら」となっていました。詩人は罪を一つ一つ数え上げ、書き留めるような神を感じ取っています。それは、「深い淵の底」の理解の深さです。
 そこまで分かっていながら、どうして詩人はなお、神にすがるのか。すがれるはずがないと分かっていながら、どうして、そうしようと心が動いたのか。望みようがない所で、なお待ち望むというのですから、余程のことです。詩人の心を突き動かすものがあったはずです。「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。」(6節)と言っています。この「見張り」は口語訳聖書では「夜回り」となっていました。暁は夜回りが待とうが待つまいがやってきます。これは確実さを言っています。夜回りは確かに暁がくることを知っているから、暗い夜を過ごすことができます。詩人はそんな夜回りに勝って、主を待ち望んでいると言います。詩人は、待つ相手が確実なので待てると表明しています。待望の根拠を見いだしています。
 「あなたが罪をすべて心に留められるなら〜誰が耐ええましょう」(3節)という絶望と、「待ち望みます」(5,6節)いう待望のちょうど真ん中に、「赦しはあなたのもとにあり」(4節)との確信が表明されています。これこそが、待望の根拠です。自ら底なしの深み沈み込み、神様の前に耐えきれない者となっていたのに、あろうことか、神様のもとには赦しがあったと言います。赦しがあるから、待てると言います。
 「赦しはあなたのもとにあり」の「もとに」は「共に」という語が当てられています。7節の「購いも主のもとに」も「共に」と書いてあります。インマヌエルのイン=イムです。旧約詩人が待望の根拠とした赦しは、インマヌエルの君こそ、私たちの主イエス・キリストです。赦しの主を今こそ待ち望みたいと思います。


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