「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」この御言は、あまりにも有名であるために、当たり前のことのように受け止めているかもしれません。しかし、「独り子」という言い方は、新約聖書全体でも五回しかでてきませんから、珍しい言い方です。ヨハネの手紙T3章9〜10節では、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。〜ここに愛があります。」と言われています。神が独り子をお遣わしになった、ここ以外に愛は無いと言いますから、当たり前のことではありません。神が独り子を与えることに、愛が極まっている。「独り子」というのは、一人っ子ということです。跡取りであり、神の愛を一身に集める一人っ子。神はその掛け替えのない大切な一人っ子を、世にお与えになった。これほど大きな愛はない。
宗教改革者ルターがこのクリスマスの出来事をつぎのように言っています。「神は至高者にて在しまし、その上には何者も存しないから、上を見上げ給ふ訳にはゆかぬ。またよこを見給ふわけにもゆかぬ。何者も神と比ぶ者はないから。それ故、神は己自身と下を見給ふより外に仕方がにあのである。そして人が神の遙か下に居れば居るほど、神は一層之を顧み給ふのである。」神様がキョロキョロされるはずもなく、遙か下に低きに居る者をわき目もくれずに注目し顧みたもう。それが、クリスマスに起こったことだとルターは言います。このことは、ルターばかりでなく、ルターを遙かに遡る旧約の詩編113篇の詩人もうたっています。「主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。」ある聖書学者がこの「低く下って」というところを「身をかがめて」と訳していました。こう訳される語には「身を投げ捨てる」とか「身を落とす」という意味があります。神様はいと高き神であるばかりではなく、人間の世界に向かって身をかがめ、ご自身を投げうってまで顧みられる。そのとき、「弱いもの〜乏しい者〜子のない女」(7〜9節)たちを立ち上がらせ、喜びを与えたまいます。これこそ、クリスマスに実現したことです。
ヨハネは低きに下りたもう独り子を信じる者は命を得て生きるようになると言います。(16節)それは、裁かれて滅びるはずの者が救われることである(17節)実際には、これはどういうことか。なぜ神が遜り、低きに下られるのか。なぜ独り子をお与えになったのか。私たち人間の側からすれば、それは命を与えられること、救いを与えられることと様々に言えます。しかし、神はなぜそんなことをされたのか。神の側に低きに下り独り子を与える必要が、どこにあったのか。私たちには分かりません。それで聖書は神様が世を愛してくださったからだと言う他なかったのだと思います。愛には元々理由などない。愛するのに、必要とか得を計算することはない。どうして、神が低きに下って、低き者を顧みたもうのか。どう考えても分からない。もう、愛としか言いようがない。独り子を与えられた私たちの方に、この神の愛を受けられる何らかの理由・資格があったわけではありません。神様に対してどんな良いことをしたか。神に愛されるようなところがあったか。なにも無い。神は理由なく、私たちを愛してくださった。
ヨハネはここに愛を知りました。愛には理由などいらない。それを神がその独り子をお与えになったことで知らされた。それで、この神の理由の無い愛が私たちに命を与え、救いを与えると言います。そのとき、私たちの愛も変わります。鈍くなっている私たちの愛。まともに愛が取り上げられることも少ない。実際に愛に生きようとするとき、この人には愛すべきところがあるかと、理由を探し手島居ます。そして、自分が見つけた理由で愛そうとする。しかし、自分が見つけた理由と相手の実際が違っていたと分かると、裏切られたと言い出す。そんな人だとは思わなかったといって愛に破れる。そんな私たちの愛が変えられる。神の理由のない愛が私たちに与えられると、私たちも理由を探すことなく愛しはじめることができる。聖書の言う永遠の命とか救いというのは、このことです。愛に破れる者に神の独り子が与えられました。恐れず愛に一歩踏み出したいと思います。
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