札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
誇り高い信仰
コリントの信徒への手紙2  12章1節〜10節 
牧師 堤 隆
2月26日主日礼拝説教から抜粋 
「教会の声」説教(3月号)

【新共同訳】
 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「わたしは誇らずにいられません」(1節)と言うのは自慢したいと言うのではありません。直訳すれば「誇る必要がある」となります。これは人として生きていく上での尊厳のことを言っています。キリスト者とされて神の前に立つ人間こそ尊厳を持つ。主によって誇り高く生きられる。このことは是非とも必要であると申します。パウロは自分の拠って立つ誇りとしているところは、「主が見せてくださった事と啓示」(1節)であると言います。2節から4節にかけて何か夢幻のようなことが語られているようにきこえますが、「言い表しえない言葉を耳にしたのです」と言っています。神のことばを体験したと言います。御言体験と言ってもいい。これは恐らく使徒言行録9章にある回心の事ではないかと考えられます。だとしたら、わたしたちもひとりひとり回心させられて、キリスト者とされたのですから、このパウロの御言体験をわたしたちもしていることになります。そして、このことを誇ってもいい。いや、誇る必要がある。御言体験をわたしの拠って立つところとして誇る必要がある。
 キリストによって神のことばを聞かせていただいたことは、神体験といってもいい。ただ聖書に書いてある言葉を文字として読むのではない。神が自分に語りかけてくださることばとして聞かせていただくのは自分が神を体験することと言えます。御言を自分に語りかけられているものとして聞けるのは、大変光栄なことです。誇れることです。わたしたちは光栄ある信仰を与えられています。しかし、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)とパウロは言います。神様からいただいた誇り高い光栄ある信仰を外したら、自分には弱さしか残らない。しかし、その自分の弱さを誇ると言います。開き直って言うのではありません。「わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)と言っています。これは何らかの病気ではなかったかと考えられています。8節には「離れさせてくださるように、わたしは三度主に願いました」と言っていますから、どうも持病であったようです。持病というのは、すぐには治らないやっかいなものです。それをパウロは「サタンから送られた使い」と言います。「わたしを痛めつける」からです。神様が自分を痛めつけるとは考えられない。かといって、自分が持とうとして持病を持った訳でもない。だとしたら、サタンのせいとしか言いようがない。これは、わたしたちの弱さにも当てはまるのではないでしょうか。神のせいでもなく、自分のせいでもないのに痛めつけられることは、ときに降り懸かってきます。信仰を得たら弱さも辛いこともたちまち消えてなくなるということは、まずありません。辛くてならないのに逃げ出すこともできないということだって起こってきます。パウロは誇りとする経験の後にも「わたしは三度主に願いました」と言っていますから、回心後にも持病は止まなかったことになります。
 そんなパウロに主は「わたしの恵みはあなたに十分である」(8節)と言われたといいます。これは「わたしの恵みは、あなたが苦しみを耐えるのに十分である」ということです。それを「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言い換えています。どういうことか。7節で「思い上がることのないように〜思い上がらないように」と繰り返されています。そのように弱さの中に神の力が発揮されると言います。サタンの使いは痛めつけるけれども、その中に神は働きかけてくださって、思い上がることのないことのために用いてくださる。これはパウロの持病に限ったことではありません。10節では「侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」と言っています。こんなところに神の恵・力が働くのかと思われるところにも、実際働くと言います。病気が治らないから神は自分を見放したと思わなくてもいい、辛い境遇が好転しないからといって神は自分から遠のいておられると言わなくてもいい。キリストによって御言体験・神体験をさせていただいたキリスト者は神の恵・力が及ばないところはないと誇り高く信じることができる。弱さに恵み・力を注ぐことのお出来になる神様を誇って信じたいと思います。


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