札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「「賜物を持ち寄って」
コリントの信徒への手紙一 12章4節〜11節
牧師 堤 隆
5月27日(日)聖霊降臨日主日礼拝説教から抜粋
「教会の声」説教(6月号)

 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 本日は聖霊降臨日を迎えています。主イエス・キリストの十字架と復活の後、地上に残された弟子たちに聖霊が注がれ再び結集させられ、最出発させていただいた日がペンテコステです。主を裏切り見捨てた者たちが立ち直らされただけでなく、新しく歩みを始めることを許された日です。新たな弟子団=教会が誕生しました。聖霊が注がれて教会が建てられ歩み出す。ところが、本日紐解いていますコリントの信徒への手紙の宛先教会では、霊を受けることと熱心・熱狂とが取り違えられてしまいました。霊は特別な人にだけ与えられるとか、霊の賜物の間には上下、優劣があるなどということが、真しやかに語られたらしい。
 そこで「賜物にはいろりろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」(4節)とパウロは申しました。霊の賜物を誇ったり、逆に無いと言って僻んだりするのは見当はずれである。将に賜物は与えられたものであり、与え手は御霊である。このことをわきまえていないと、才能や能力を自分の持ち物のように捉えて、誇ってみたり僻んでみたりする事になる。ひところ「カリスマ〜」ということが流行りました。カリスマ美容師と言ったら、普通の美容師ではなくて天才的な技を持った人を指しました。そんな言い方が広まったものですから、カリスマ的といいますと、何か神秘的なことができる人のことを指すようになりました。コリント教会でも同じように受け取られて、教会がギクシャクしました。けれども、カリスマと言ったら元々それは「恵み」のことを言います。カリスマという語の中のカリスは「恵み」です。それで、カリスマは「恵まれたもの」を言います。だれも元々持っているものを恵みとは思いません。与えられる、賜るから恵みです。神様から与えられるということでは、才能・能力もまた、これは持って生まれたというよりも神様から与えられたものですから、カリスマ=賜物です。
 「一人一人に"霊"の働きが現れるのは」(7節)とか、「一人一人に分け与えてくださるのです」(11節)といいますのは、霊の賜物はある特別な人にだけ与えられるものではないことを言っています。一人一人に、一人残さず与えられている。ですから、自分には人にない才能があるといって誇れないし、自分には何の才能も無いといって僻むこともない。霊の賜物には多様性があります。実はここに勘違いが起こります。賜物がいろいろあってそれぞれに違っている。そして、その違いを上下・優劣で見てしまうと勘違いが起こります。多様性を上下・優劣でみると間違ってしまいます。わたしたちの教会にもいろいろな賜物を与えられた方がおられます。人に配慮をすることのできる人。人が気づかないところを黙って補うことのできる人。本当にいろりろです。それを上下・優劣で見たら賜物が賜物と扱われなくなってしまいます。賛美歌を歌う人たちと、オルガンで賛美歌をリードす奏楽者とを比べて、どっちが上だ下だと言っても何の益するところもありません。牧師は信徒よりも偉いなどと言ったら、キリストの弟妹にされた者たちの教会ということが損なわれます。
 さて、パウロは賜物についてただ誇るな僻むなというだけではありません。神様は多様な賜物を豊かさとしてお与えになったのであって、決して教会をバラバラにするためにそうされたのではないと言います。「一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)と言っています。この「全体の益となるため」というところは、「共に+運ぶ」という語です。ここから「持ち寄る」という意味を表します。多様な賜物はバラバラ勝手に発揮するのではなく、互いに持ち寄って発揮するものであると申します。もちろん持ち寄って品評会をするのではありません。みんなが一人一人、一人も漏れることなく、恵みの賜物が与えられていることを知って、神様に感謝するためです。具体的には8節以下にそれを記しています。コリント教会の人々に与えられている賜物を数え上げています。
そして、これらの賜物をあたえる霊のことを「霊は望むままに」(11節)と言います。御霊の自由のもとに賜物豊かに教会生活を送らせていただきたいと思います。


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