本日から月に一度の予定でヨハネ黙示録を読んで礼拝を守ってまいります。北一条教会で黙示録を読み始めたのは信友会の人たちです。年齢性別など一切問わない自由参加を訴えられている信友会の方たちが、いそいそと三階の5号室に上っていかれるのをうらやましく見ていました。もう随分読み進められたようです。信友会でない方も一度はこの黙示録を開かれたことはおありになると思います。なんだか難しいという印象を受けられたかもしれません。
しかし、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(3節)とあります。これは礼拝のことを言っています。黙示録は礼拝の中で読まれました。それなら、わたしたちも礼拝の中で朗読して聞いて守ることができます。礼拝のこころをもって読めば分かるということです。語句の意味や筋は難しいかもしれません。しかし、礼拝のこころをもって読めば、言わんとするところは読みとれる。難しい難しいと言いましたが、これには理由があります。もうローマ帝国による迫害が始まっていました。実際に著者のヨハネはパトモス島に島流しにされていました。(9節)ローマ皇帝ドミティアヌス帝による大変厳しい迫害の時代です。大っぴらに教会は立っていられなかった。見つかればヨハネのように島流しにされたからです。それどころか、どんどん処刑されていきました。ドミティアヌス帝は皇帝崇拝を強要したことで有名です。そんな中でキリスト者はイエス・キリストだけが自分たちの主であると信じて曲げませんでした。黙示録はイエス・キリストのみが主であると告げる書物です。大っぴらに記せば捕まってしまいます。それで、ペルシャ王アンティオコスに迫害された時代の旧約聖書のダニエル書を引用して、これに重ねて自分の時代における信仰を語りました。1節の「すぐにでも起こるはずのこと」というのが最初のいんようです。黙示録はダニエル書による説教ともいえます。ですから、説教として読むとよく分かります。
さて、この黙示は神がその僕たちに示すもの(1節)といいますから、自分たちの主人は神様だとすでに語っています。それから、神のことばはイエス・キリストによって証さされるといいます。(2節)そして、その神のことばとイエス・キリストによる証は礼拝の度ごとに実現するから幸いだ(3節)といいます。暗雲立ちこめて神のご支配が見えないと思われてしまう中で、ヨハネはわれわれにはこの黙示があると訴えました。4節に「アジア州にある七つの協会へ」とあります。その直後には「七つの霊」ともあります。七は完全数です。七つの霊というのは完全な霊、即ち聖霊のことです。会堂もない、牧師も一つの教会にいつもいるとは限らない。七つの教会を巡回していたかもしれない。しかし、それでも七つの教会=完全な教会があったといいます。それは七つの霊=聖霊が注がれていたからです。
続く4〜5節では祝福を語ります。父なる神様からの、聖霊からの、イエス・キリストからの祝福です。わたしたちが礼拝の最後で受ける祝福と同じ祝福です。神様は全人格をあげて、総力を結集して祝福を注いでくださる。ヨハネはこの祝福があるからといって慰めます。そうして、次にその慰め主をほめたたえます。(5〜6節)こういうところから、4節以下は礼拝形式で語られていると解説され、7節は説教にあたるといいます。「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」という諸民族は、主イエスを十字架につけたユダヤ人、ローマ人だけではない。日本人も中国人も皆、世界中の民がです。「彼のために」=「彼」がわたしの罪を負って裁かれてくださったといって嘆き悲しむ。地上のすべての者が罪を悔いて、主イエス・キリストを仰ぎ見るときが必ず来ると説教されています。そのときは、必ず来ることを神様ご自身が宣言されています。「わたしはアルファであり、オメガである。」(8節)ギリシャ語の最初と最後の文字です。神様ご自身が、「初めから終わりまで」わたしがあなたがたの主であり全能者であると、今この礼拝において啓き示しておられます。感謝をもってみ名をほめたたえたいと思います。
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