札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「勇気を出せ、私がいる」
マルコによる福音書6章45節〜56節
牧師 堤 隆
10月28日(日)主日礼拝説教から抜粋
「教会の声」説教(11月号)

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主イエスというお方は弟子たちの困難を見れば来てくださる方であるということが、このときの弟子たちにはわかりませんでした。(弟子たちだけで船出して逆風に漕ぎ悩んだ時)「イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」(49節)幽霊の語源は「現れる」です。子どもが「お化けが出たー」と言うのに似ています。弟子たちは「出たー」と叫んだ。「イエスを〜見て」いるのに、どうして幽霊が出たと思ってしまったのか。よく見えなくて、主と分からなかったのではありません。「皆はイエスを見ておびえたのである」(50節)とあります。主であると分かったのに、幽霊だと思い、おびえてしまった。
 けれども、このところはどうも、主イエスのお化けを見ておびえたのではなさそうです。子どもがお化けが怖くて夜トイレに行けないというのとは違います。「幽霊だと思い〜おびえた」というところは誤解を生む可能性があります。ここは「幻影がいると思った〜狼狽した」(直訳)と書いてあります。幻影ですから、実際にはいないのに、いりかのごとく見た。そしてそのことに狼狽したまった。弟子たちの心の内は複雑でした。自分たちは漕ぎ悩んでいる。しかも、主が一緒に乗り込んではおられない。ご一緒であれば、逆風を鎮めていただけるのにと強く思ったに違いありません。前回はそうしていただいたのですから。主とは岸でお別れしたままでした。だから、漕ぎ悩んで自分たちの力ではどうにもならなくて、こんなときにこそ主がご一緒であればとあまりにも強く願ったために幻影を見てしまったと思われた。これは幻影だと思ったということは、自分たちはそんなものを見るほどに追いつめられていると思ったということです。それで、狼狽した。わたしたちにしてみましても、信仰は幻想でしかないと思われたら動揺すると思います。信仰が、実際にはありもしないものをあるかのごとく信じているにすぎないとなったら、あわてるでしょうし、うろたえると思います。弟子たちは主イエスを信じていなかったのではありません。むしろ、信じていたから、困ったときに幽霊と見誤ってしまいました。わたしたちは、これと同じ轍はふみたくありません。助けていただきたいと強く思うあまり、幻影を見てしまう、幻想を抱いてしまうとしたら、こんな悲しいことはありません。
 このときの光景の中でどうしても気になりますのは「そばを通り過ぎようとされた」(48節)というところです。逆風に漕ぎ悩む弟子たちを後目に通過しようとされたのか。もし、そういうことでありますなら、弟子たちは主に見放されたと思われておびえたことになります。しかし、主が弟子たちの困難を後目にご自分ひとり安全に湖を渡って行くようなことをされたとは考えられません。だとしたら、この不思議な主の行動とは何だったのでしょうか。こんな疑問をもって調べていましたら「神顕現定式」という説明を見つけました。旧約聖書以来、神様が人に現れるときの決まった表現様式がいくつかあるというのです。そのひとつに「そばを通り過ぎる」というものがある。たとえば、モーセがイスラエルを率いる困難を覚えたときに、神様は善い賜物とご自分の栄光を通り過ごさせて臨んでくださいました。(出エジプト記33:19,22)それと同じように主は漕ぎ悩む弟子たちに臨んでくださったのでした。マルコの教会の人々も、そして、わたしたちも実際に困難に出会えばおびえるかもしれません。「しかし、イエスはすぐに彼らと話しはじめ」られました。(50節)マルコ福音書は、われわれには主のお姿は見えなくても主から話しかけていただけると訴えています。みことばに聴く時、幽霊や幻影を見るのではなく実際に現実に主にお会いできる。ことばはなす人格にお会いできる。お会いする主は「勇気を出せ、わたしがいる、恐れるな。」(50節直訳)と言ってくださいます。
 主と人格的に出会った人たちのことが続きます。(53節以下)。「すぐに〜イエスと知って」、「くまなく走り回り」、「病人を床に乗せて運び始めた」。なんともテキパキとしています。わたしたちもみことばに聞き入り、人格的に主に出会って、勇気を出そうではありませんか。


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