世の歪みの中で先行きを見いだせず人間性までも失っている人々(王様からエルサレムの人々にいたるまで)唯一メシアに出会うことができたのは東方から占星術の学者たちでした。彼らは東から昇りつつある星を見て行動を開始しました。当時としては、天文を見ることは知者・学者の共通知識でした。彼らは怪しげな呪い師ではありません。ヘロデ王の末期に木星と土星が接近したとか、ハレー彗星が現れたというデータもあるようです。ですから、この学者たちが星を見てやってきたのは、聖書の神を信じたからというのではありませんでした。それまでの自分たちの経験知から何らかの異変が起こっていると察知した。それを聖書は星に導かれたと描きます。
彼らは直接、救い主のところに導かれたのではありませんでした。まず祭司長や律法学者たちが調べあげた聖書のみことばに触れます。星がまず導いた先は「みことば」でした。学者たちは、自分たちは星の動きで異変を察知したけれども、その背後に神の導きがあったことを悟りました。この神による導きの星は「先立って進み〜幼子のいる場所の上に止まった。」(9節)この星は、進むべき方向に先導し、止まるべき所をはっきりと教えました。この星は学者たちにとって今や天文学的統計によるデータではなく、神のことばの告げるところを指し示すものとなりました。だからこそ、学者たちはこの星が止まった時に初めて、「その星を見て喜びにあふれた」(10節)のでした。星に導かれた学者たちはみことばに触れ、自分たちを導いたのは神であったことを知り喜びにあふれました。導きの星が喜びの星に変わった瞬間でした。導かれて到達した。待望していたことが実現したという喜びです。
この喜びの星が留まるところに、最初のクリスマス礼拝が始まりました。(11節)学者たちはひれ伏し拝みました。彼らはその喜びを、礼拝によって表しました。礼拝でしか表せなかったというのが実際のところではなかったか。学者たちのここに至るまでの歩みは、何にも邪魔されることのない順風満帆とはかけ離れていました。「王の言葉を聞いて出かけると」(9節)とはありますが、実は「知らせてくれ」(8節)という王の絶対命令によって強いられたものでした。しかし、そんな中でも学者たちは自分たちを導くのは王の命令ではなく、星と聖書という神の導きであると信じました。その神の導きが実現したというので彼らは喜び礼拝しました。そして、この礼拝の後、「ところが『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(12節)のでした。今や彼らは全く神にだけ導かれる者たちとなっています。「別の道」とは、ヘロデの命令によって報告に帰るのとは「別の道」です。だからこそ、「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った」(16節)のでした。学者たちは混迷し人間性を無くした世と無関係の「別の道」を行ったのではありません。その「世」をしたたかに乗り越えていきました。それはひとえに喜びの星がとどまる所で「幼子を拝む」ことから始まっています。
彼らの礼拝での献げものは、実はそれまでの彼らの商売道具ではなかったかと推測されます。それまで自分たちを支配していた一切から決別を、この献りものによって宣言した。王の命令からの決別、先行き不安からの決別、人間性を奪う世のひずみからの決別でした。解放を身をもって経験しています。
学者たちをひれ伏し拝ませているのは、もはや星でも聖書知識でもありません。喜びの星のとどまる所にいましたもう「幼子」ご自身です。マタイ福音書はこの方を「ユダヤ人の王」(2節)と言った後、繰り返し「幼子」(8,9,11節)と呼びます。幼子の小ささ・弱さの中に神の立てたもう王がおられると言います。この王は小ささ・弱さを隠しません。生涯をその小ささ・弱さで貫かれた。苦難と十字架に向かう王となられましたそこから、学者たちの献げものの「黄金・乳香・没薬」は、「王・神・死すべき者」にという解釈が生まれました。神が幼子として来てくださって、十字架に架かり、小さく弱いものの王となってくださったからです。
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