ひと月余りかけてコリントの信徒への手紙15章を読み続けました。そして、本日読みます最後の段落で「兄弟たち、わたしたちはこう言いたいのです。」と言っていま。15章は復活を終始語り続けました。その結論を「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず」(50節)といって念を押しています。要するに「血肉は復活しない」ということです。今、食べたり寝たりするこの肉体がそっくりそのまま復活するのではない。また、主の復活を祝うイースターもただの記念日ではありません。やはり、復活信仰を確かにされる時です。使徒信条は「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白しています。復活して今も生きておられるキリストは再び来てくださる。復活信仰はここまで含んでいます。
それでは、どうして復活の主は必ず来てくださると信じられるのか。復活の主はわれわれには知ることのできないどこかにいってしまわれたのではない。復活して天に昇り父なる神のみもとで今も生きておられる。その主が再び来てくださるとの約束をわたしたちはいただいています。わたしたち同士の交わす約束が守られないことはしばしば起こってきます。珍しいことではありません。そういう日常を送っていますと、復活の主の約束まで、当てにしなくなるといいうことが起こってきます。逆かもしれません。復活の主の約束を疎かにするから、日常の人々との暮らしも大切にしなくなる。
復活の主の来臨は「まあ、いつかは」という話ではありません。この「いつかは」には「当分は来ないだろう」という高をくくった思いが潜んでいます。しかし、聖書は「必ず」(53節、直訳は「定められている」)と言います。神様ご自身が定められている。だから、復活の主は必ず来てくださると信じることができます。そうして、復活の主が来てくださると信じるとき、わたしたちの日々の暮らしも変わってきます。いつかは来られるかもしれないが、当分は来られないだろうという高をくくった暮らしはできなくなります。「生きている者と死んでいる者とを審かれ」るために来られることを信じたら、もう神の目を盗むような高をくくった生き方はできません。それなら、不意に来られても困るといいうので、戦々恐々としなければならないのか。そうではありません。かえって、いつ来ていただいてもいいという生活が始まります。この世では朽ち果てるしかない者に、「朽ちない者とされ」(52節)る約束が与えられるのですから、すでに「今」、懸命に生きられる。神様の定めを信じるものは、今すでにいつ来ていただいてもいいという日々を過ごすことができます。
この暮らしぶりは決して開き直ったものにはなりません。54節から55節にかけて「勝利」ということが畳みかけられています。神様がわたしたちに賜る勝利は、主イエス・キリストによる勝利です。これは復活の勝利のことを言っています。主の十字架は全くの徒労に見えました。誰もがそう思った。しかし、復活がその徒労と見える死に勝利しました。朽ちない者にしていただけるとの約束の保証が、ここにあります。それを「あなたたちは知っているはずです」(58節)とパウロは申します。わたしたちの労苦も無駄にならないことを知っている。それは、あれほどの労苦、労苦の極みである主の十字架が無駄に終わらなかったことから知れるではないかと言います。わたしたちにとりましては、次から次ぎへと降り懸かる労苦が無くなるとは、とうてい思えません。むしろ、労苦が無くなることを夢見ることのほが無駄なことです。それよりも、今の労苦が朽ちないものへと繋がることのほうが大切です。復活の主に結ばれている生活は、労苦が無駄だと思わなくてよい生活です。主に結ばれての生活は朽ちない。だから、いつ終わりが来てもいいという信仰の覚悟ができます。また、それだけに懸命に今と暮らせます。「動かされないようにしっかり立ち」(58節)とあります。労苦は朽ちないものに変えていただけると信じるので、しっかり立つこともできる。語弊を恐れず申しますと、「無駄を承知で打ち込める」。労苦を恐れず、無駄を承知でキリストの愛を述べ伝え続けたいと思います。
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