札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「多くの人の身代金として」
マルコによる福音書 10章32節〜45節
牧師 堤 隆
4月28日(日)主日礼拝説教から抜粋
「教会の声」説教(5月号)

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
  ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 本日の聖書では「エルサレムへ上る」ことが繰り返し出てきます(32,33節)。これは第一回二回予告でも示されていました受難の待ち受けるエルサレムのことです。そんなエルサレムがもうすぐそこにまで迫っている。そして、「イエスは先頭に立って進んでいかれた」ので「従う者たちは恐れた」のでした。実は、この「先立ち進む」は直訳すれば「先立ち導いておられた」となります。原語にははっきりと「導く」という語が含まれています。ただわき目も振らずにものすごい形相で先頭を進んでおられたのではありません。14章28節も「先立ち導いてガリラヤへ行く」ですし、16章7節も「先立ち導いてガリラヤへ行かれる」となっています。そうしますと、10章は「主イエスが先立ち導いておられると、従う者たちは恐れた」と言われていることになります。主に導かれているのに恐れたのはどうしたことか。それは、受難の待ち受けるエルサレムへと主が先立ち導いておられたからだとマルコ福音書は言います。従う者たちは巻き添えを食うのではないかと恐れた。主の導きが分からずに恐れたということです。主は導きを分からないままについてきて来ているのを見抜いて、「再び十二人を呼び寄せて、自分の身におころうとしていることを話し始められた」のでした。主の先導を分かって従っていく弟子の再結集を始められました。
 その第一声が「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく」です。ここは「見よ、わたしたちはエルサレムへ上っていく(直訳)」です。エルサレムでの受難に目をつぶることなく、見よ=注視せよと言われます。受難ばかりではありませんでした。「そして、人の子は三日の後に復活する」ことも見よと言われました。これは、14章で「先立ち導く」と言われることと関わります。14:27〜28には、羊飼いが打たれると羊は散ってしまうというゼカリヤ書からの引用があります。主はご自分が十字架に架かれば弟子たちは散ってしまうことを、これに重ねて言われました。そして、「わたしが復活した後、あなたがたに先立ち導く」と言われる。そうしますと、10章の方でも、同じです。エルサレムへと向かっているというだけで、恐れてしまっている十二人でした。このとき、十二弟子というまとまりはなくなっていました。散り散りになる可能性がこのときからすでにありました。それで、主はこのときも先立ち導かれました。主の導きはエルサレムに行っても終わらない、十字架が起こっても中断しない、復活して更にガリラヤに戻っても続く、絶えることのない主の導きが十二人の恐れを克服させるものとして与えられたのでした。
 すると、恐れていた十二人の中の二人が、どうやら主はわれわれの恐れを知ってくださっていると気づいて「お願いすることをかなえていただきたいのですが」と甘えたこどものような願い方をしました。栄光の座を求めるのでした。右に左にといって、ナンバー2、3の地位を願いました。これを知ったほかの十人は憤りました。出し抜かれたと思われたからです。自分たちは、ナンバー4、5・・・かと思われたからでした。と言うことは、出し抜いた二人も出し抜かれた十人も、結局は同類であったと言うことになります。上下・順番のある栄光を求めることで同じでした。そこで主は、十二人の考え方はローマの役人と変わりないと指摘されました。そうして、「皆に仕える者になり〜すべての人の僕になりなさい」と教えられました。
 だからといって主は権力補完のために、下積みの奴隷を作りに来られたのではありません。主ご自身、仕えるために来たと言われます。「多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来た」とおっしゃいました。罪の奴隷となっている者、即ち人の間に上下・順番・支配被支配を持ち込んで、自分を神にに仕立てようとする罪の奴隷を贖うための身代金です。更に、すべての人に仕える僕となっている人をそのままに放置せず、買い取って神様のものとしてくださるための身代金です。主の命という身代金を払っていただいているわたしたちですから、恐れることなく神と人とに仕える者となりたいと思います


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