札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「神のものは神に」
マルコによる福音書 12章13〜17節
牧師 堤 隆
6月23日(日)主日礼拝説教から抜粋
「教会の声」説教(7月号)

 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして」とあります。ここはもっと強く「言葉でつかまえる」(直訳)です。猟師や漁師が銃や網で狩りや漁をするのと同じように、主イエスを言葉でつかまえようとしました。嫌みのひとつでも言ってやろうという程度ではありません。このとき、遣わされたファリサイ派とヘロデ派は既に結託して主を殺そうとしていた者たちでした。(3:6)どうして、そこまでして主を排除しにかかったのかといえば、直前で主が彼らを見抜いて語られたたとえにあったとおりです。主人から委ねられたぶどう園を主人から奪うために、主人の一人息子さえ殺してしまう罪のためでした。
 神から奪おうとする罪人らは、言葉を道具にしてなんとしてでも主をとらえ殺そうとしました。その捕獲のための言葉は、言葉じりをとらえる巧みさという程度のものではありませんでした。ここに出てくる「税金」という言葉は、「人口調査」という語が当てられています。それで「人頭税」と訳す人もいます。これは当時の支配者ローマ皇帝が取り立てるものでした。被占領民のユダヤの人々にしましたら、皇帝の奴隷にされるも同然でした。ですから、皇帝に税金を納めるかどうかは、言葉じりの問題どころではなく大問題でした。
 口語訳聖書や文語訳聖書では、主のお答えは「カイザルのものはカイザルに」でした。これは大抵の国語辞典に出ています。その意味として、信仰と政治の割り切りであるとか、なにごとも本来の持ち主に返すべきだと説明されます。これらの意味説明は間違いです。今そういう意味で遣われているとしても、主はそんな意味で言われたのではありませんでした。神にも国にもどちらにも、いい顔をしておいたらいいとか、あるべきところに返せと無秩序を戒めるとか、そのような程度の処世訓を言われたのではありません。
 主はデナリオン銀貨でご自身のことばの真意を確認させようとなさいました。神殿には肖像のついたコインを持ち込めませんでした。(偶像礼拝を避けた)なのに、彼らはすぐに持ってきました。彼ら自身が携えていたとしか考えられません。そうして、自らの偽善を晒しました。彼らもローマのデナリオンを持っていなければ生活できなかった。皆そうでした。それで、せめて神殿の中だけはデナリオンを通用させないと割り切っていた。そういう割り切りはおかしいというので、主は神殿の両替人の机を覆されたのでした。これはわたしたちのことで言えば、日曜日には教会に来て老若男女でいて、月曜日から土曜日までは俗人でいいというようなものです。偽善はあきらかです。「皇帝のものは皇帝に」との主のおことばは、神殿の中だけを神聖にしようという偽善に生きなくてもよいという励ましです。圧制であろうとも、皇帝の支配かでも生きて行かれる、生きてよいと言ってくださる。割り切りでなく神の道を歩んで生きられる。「神のものは神に返す」ときにそうできる。聖書の解説者の中にはこれを主の皮肉と説明するひとがいます。「カイサルのものはカイサルに、カイサルをを神としているなら」という皮肉を言われたと解する。あるいはこれは具体的に神殿税のことを言っておられるのだと言う人もいます。「神のものは神に」と言って神殿税を集めておいて、人頭税のことをとやかく言えるかと言われたと解する。果たして、主はそんな皮肉に終始されたか。
 主は天地の割り切りとか妥協というようなことを教えられたとは考えられません。専ら神の道を教えられました。皇帝の像がデナリオンに型どられて、皇帝がお金を支配して治めているなら、その中でも暮らしていっていい。神はご自身に型どって人を造られたのだ。皇帝を含むすべての人は神に型どられ、支配されている。皇帝のことも人々のことも、一元的に支配していてくださる。この神にのみ服する。ここの「納める」とは納税のときの用語です。神のものであるあなたがたを神にお返しすることは、してもしなくてもどちらでもいいことではなく、税金の用に必ずしなければならないことだと主は言われます。神のものを神にお返しして、神にご栄光を帰して歩んでまいりたいと思います。 


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