試したり、陥れたりしようとする問いに、それでも、「見事に」(1節の「立派に」の直訳)答えられる主の様子を見ていた一人の律法学者が、第一の掟はどれかと尋ねました。すると主は、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」と答え始められました。このくだりは、ユダヤ人は子どもの頃から暗唱して毎日唱えていたものです。かといって、主はこんな子どもでも知っていることが分からないのかとおっしゃったのではありません。その子どもの頃から教えられてきたことが、いの一番のことだと言われます。神の民イスラエルは何でイスラエルたりえるのか。ひとえに神に聞くからである。だから、「シェマー、イスラ-エ-ル(聞け、イスラエル)」といって掟は始まっている。神に聞く者こそ、神の民である。試みたり陥れたりするために聞くのでなく、神の民となるべく聞く。
そうしますと、ヤーウェ(神の名前)神がわれらの唯一の神であると聞いたら、もう聞きっぱなしにはできない。そこで、30節以下の掟が続きます。聞け、愛せよとの御心をという具合です。「聞け、そうすれば愛するようになるだろう(直訳)」です。主のお答えはこうなります。「聞け、イスラエル。そうすれば愛するようになるだろう、神を。そうすれば愛するようになるだろう、隣人を。」神を愛する愛と、隣人を愛する愛と二つの愛があるのではありません。一人の人格としてのわたしが、誰々用の愛と使い分けをするなら、自己分裂してしまいます。ここで、注意したいのは、「自分のように」という一言が入れられていることです。隣人を自分のように愛することは、実は難しい。誰々用と使い分けるから難しくなる。神を愛せば人を疎かにするようになり、人を愛せば神をそっちのけにするようになる。自分を愛せば、誰のこともかまっていられなくなる。そんなバラバラな愛が本当の愛と言えるか。
そんな中に、自分を本当に愛せているかという深刻な問題も垣間見えてきます。自分さえ良ければというのでは、利己的な自己愛でしかありません。そんなもので自分を愛したところで、本当に自分を愛することになるとも思えません。その反対に、自分で自分を受け入れられないことも起こってきます。自分はこの程度の者ではないのに世間は認めてくれないと不満を募らせるときです。実際の自分を自分でもなかなか受け入れられず、自分を持て余してしまう。それではとても自分を愛しているとは言えません。誰々用と愛をバラバラにするとき、愛せなくなっていく。それだからこそ、「隣人を自分のように愛しなさい」命じられているのだと思います。自分を愛することと、隣人を愛することを別扱いしない。一つの愛で愛しなさいと神は命じられます。その一つの愛の源が、ヤーウェなる神(29節)です。ヤーウェという固有の名を持つ神様ですから、人格的な方です。だから、極めて人格的な愛の源となっておられる。人を愛してやまない神様です。この神の愛から始まるのが、私たちの愛です。ヤーウェなる神に愛されて、これにお応えするとき、神も隣人も自分も、同じように一つの愛で愛することができるようなる。
さて、「隣人を自分のように愛しなさい」は、レビ記にあることですが、この教えの直前には「復習してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」(レビ19:18a)とあります。愛すべき隣人は復習心や恨みを抱いてしまうような相手だと言います。隣人の罪に巻き込まれそうになっても愛せよとの教えです。しかし、そのときです。隣人を自分のように愛する。逃げない。逃げても罪の隣人はどこにでもいます。だから、自分のように愛す。自分の度量では太刀打ちできそうもなくてもです。罪の隣人に巻き込まれないためには、自分自身を愛する仕方で愛するしかありません。では、どんな「自分」か。自分で考えていても分かりません。この「わたし」のことを、わたし以上に考えていてくださる神は、罪のわたしを愛してくださっている。だから、神に愛されている私を愛するように、罪の隣人を愛する。罪の隣人もわたしと同じように神に愛されていると信じて、一つの愛に徹したいと思います。
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