主は「いちじくの木から教えを学びなさい」と教え始められました。この地方にありふれたいちじくの木に、人々は気にも留めなかったはずです。しかし、主はそのように人知れずいのちが芽吹くところに、世の終わりを見て取るようにと言われました。戦争のうわさ、地震、飢饉、迫害といった、いやが上にも人の目や耳を引きつけるいのちの危機ではなく、人に気づかれなくても確実に芽吹くいちじくのいのちの発揚に、終わりを見て取るようにと。いのちの芽吹くところに、人の子は戸口のそば程に間近に近づいて来てくださる。これは遠い未来のことではなく、すでに起こっている=「すでに、その枝が柔らかくなったら」(28節、直訳)と言われます。これを主は十字架を目前にして弟子たちに語られました。ですから、復活して再びあなたがたのそば近くにやってくると約束されたことになります。終わりの時がいつなのか徴はどういうものなのかと問うよりも、いのちの芽吹くそば近くに来てくださって世が終わることを悟ることの方が、余程安心ですし慰めに満ちています。主は人知れない小さないのちのひとつひとつが芽吹くまでは「この世は過ぎ去らない」(30節、直訳)と言われます。誰でも、滅びるという噂に弱い。しかし、そう簡単にこの世は過ぎ去らない。労苦や艱難のままには終わらない。必ずやいのちの芽吹きに満ちて終わる。このことを是非心得ておくようにと主は力づけてくださいます。
わたしたちの日毎の暮らしでは、行き詰まってしまって、もうこれ以上は厭だということになってしまうことがあります。どうにでもなれと捨て鉢になることだってあります。それが高じれば、いっそのことこんないのちなんか・・・という思いが横切ります。しかし、そんなことで人生は終わらない、終わらせない、いのちを全うさせると主は確約してくだいます。いのちの確約と言ってもいいかもしれません。そのいのちの確約が「その日、その時は、だれも知らない」(32節)と言い直されています。この「知らない」という言葉が33節、35節に「分からない」(直訳は「知らない」)と繰り返されています。知らないことが大切だと主は言われます。「だれも知らない」ところに神様のみ心があると主は言われます。「天使たちも、子も知らない。」神様のみ側近くで仕えている天使ばかりか、子なる主イエスもご存じない。本当にわたしもいつなのか知らされていないと正直におっしゃいます。しかし、その知らせないところにみ心があるのだと主は言われます。
仮にです。仮に終わりの時がいついつと知らされていたら、わたしたちはどうなることでしょうか。その時が明日であったらどうか。明日でこの世は終わるとなったら、今日のことも手に着かなくなると思います。また、逆にここ百年はないと知らされたらどうか。どうせ、自分の生きているうちは無いのだからと、高をくくってしまうことでしょう。どちらも誠実な暮らしにはなりません。
主は、むしろ知らされていないからこそ誠実に生きられると言われます。33節を順序を逆にして読めば、「知らないのだから、気をつけて、目を覚ましていなさい。」となります。神の時は確実に来るけれどもいつなのか知らされていないから、今の時を大事にできる。34節のたとえには「彼の」(=主人の)という所有代名詞が繰り返されています。「彼の家を〜彼の僕たちに〜彼の仕事を〜」とです。主人にたとえられる父なる神様のみ心を注がれて今を歩める。
そこで、主人を待つにはちゃんと目をさましていないといけない。ところが、わたしたちは目をさましていることに弱い。睡魔が襲うともう、眠いものは眠い。太股をつねってみても、冷水で顔を洗ってみても、すぐにまた眠くなってしまう。そんな弱さを抱える者に主は目を覚まして待ったらいいかを教えてくださいました。「わたしの言葉は決して滅びない」と。(31節)どうあろうと過ぎ去らない。言葉は口からでたら空気を伝わって音は消えます。そんな言葉が過ぎ去らないとしたら、それは人に聞かれ心に刻まれるときです。わたしたちも主の言葉を心に刻んで、いのちを芽吹かせて主を待ちたいと思います。
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