札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「裸の逃亡者」
マルコによる福音書 14章43〜52節
牧師 堤 隆
9月29日(日)主日礼拝説教から抜粋
「教会の声」説教(10月号)

  さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 マルコは主の逮捕場面を「そして、すぐに」(43節直訳)と言って始めます。「後で休め、今は眠っているときではない。眠り込んでしまうあなたがたは甦らされる。さあ、行こう。わたしを引き渡す者が近づいてきた。」(42節直訳)と話しておられると、すぐに逮捕劇が始まったと言います。主はご自分の十字架が甦りに通づるばかりか、弟子たちの甦りにも通じると話されると、すぐに逮捕された。ユダひとりの裏切りでは済まされない、裏切りの果てに滅びるばかりの者たちの甦りの道が、今始まるとマルコは言っています。
 さて、ユダの裏切りが実際にはじまりますが、不思議なほどにその動機については語られません。「金を与える約束」(11節)はありましたが、ユダが求めたとか懸賞金が掛けられていたのではありません。ユダの裏切りの理由は見あたりません。ルカ福音書はサタンが入ったと言いますが、これとても合理的な理由とは言えません。そうとしか言いようがないというところです。裏切りの理由など全面に出せないというのが福音書の共通理解なのかもしれません。裏切りは信頼が前提となります。最初から信頼がないところでは裏切りも起こりようがない。裏切りは信頼の裏切り以外にない。マルコが理由を語らないのは、裏切りを深く捉えていたからだと思われます。「ユダにもそれなりの理由があった」とは言わない。それにしても、ユダ同情論は後を絶ちません。ユダに自分を重ねて同情するからでしょうか。それを見越すように、ルカは裏切りには言い分も言い訳もあり得ないと打ち出しています。信頼の裏切りに言い分なり言い訳なりを言い出したら、大前提の信頼そのものをないがしろにしてしまうことになるからです。
 悪人ユダだったから裏切ったとは言えない。マルコはここに群衆を登場させてわれわれひとりびとりの問題だと暗示しています。裏切りを経験したことの無い人はいないと思います。裏切られたというばかりでなく、自分の意に反して裏切ってしまうという苦い目に遭うことだってあります。もっと始末が悪いのは、思いこみで自己主張して、相手が悪いと裏切ることです。もう、裏切りは他人事とは言っておれません。
 それにしても、ユダの裏切りはおどろおどろしいものでした。最も親愛の情を表す仕草を(44節「わたしが接吻sるのが、その人だ」)裏切りの合図としました。実際に呼びかけるときも「先生」(45節、直訳は「わたしの大きい方」)と言っています。ユダは師とと仰ぎ、敬愛してやまないという態度を見せながら裏切りました。一時の衝動からではありません。裏切るとなったら、ひとは計画的にそつなく裏切る。なんともおどろおどろしい罪の姿です。
 さて、しかし、主はただただ裏切られておられたわけではありませんでした。人間の側からの信頼の裏切りと人間の側からの不当逮捕に、わたしはあえて身を任すと言われました。「これは聖書の言葉が実現するためである。」(49節)直接には27節に主が引かれた旧約聖書の言葉です。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」これが、現実になりました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(50節)羊飼いであろうが、先生であろうが、裏切ってしまう者たちのために、主は罪の深みにあえて入って行かれました。それを、このあえて捕らえれれる主のお姿が示しています。ユダも群衆もほかの弟子たちも、このとき初めて人を裏切ったというのではなかったと思われます。日頃のことが極まって、主を裏切る結末を迎えた。その罪の極みを主は引き受けられました。
 マルコはこの逮捕劇の不思議な結末を報じています。「亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」(52節)若者の一件です。今でも亜麻布は上等です。若者は自分が捕らえられそうになると、その上等の服を脱ぎ捨てて逃げました。捕らえようとす側は、上等な服を逃亡者よりも上等な服を選ぶと読んだからです。マルコはこれを主イエスを引き渡すことと重なるといって伝えます。上等な服を脱ぎ捨てて逃げるのは主を見捨てて逃げるのと同じだと言います。しかし、主はそんなあ無防備な裸の逃亡者を救うために十字架に架かってくださいました。


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