兵士たちは「ユダヤ人の王」の王位剥奪を演じることで、自分たちの任務を確認したのですが、マルコ福音書は更にそれよりも大きな意義があると言います。それを主の沈黙によって訴えています。イザヤ書の「主の僕の苦難」を連想させています。この旧約聖書の預言する神の御心を主は黙って遂行しておられる。この主の果たされた神の大儀名文を、宗教改革者カルヴァンはこのように解説しています。「つばきと殴打とで、ひどく傷つけられたキリストの顔は、罪が汚し、実際に、壊してしまったあの像をわっれわれに再び回復してくださったのである。」主が受けられたつばきと殴打はわれわえを「あの像」に回復する積極的なものだと言います。どんな像か。ある教会教父(使徒後の神学者)の説教に解説があると知りました。曰く、神様のことばとして語られています。「わたしの顔に吐きかけられた唾を見る。それを甘んじて受けたのは、あなたのためである。あなたのあの最初のいのちの息吹へと連れ戻すためであって」。これは明らかに創世記二章七節で「主なる神は土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」ことを言っています。「あの最初のいのちの息吹」へと連れ戻すために主は黙して唾を受けられた。この教父は「わたしの頬に受けた平手打ちの跡を見よ。それを耐え忍んだのは、醜くなったあなたの姿を、わたしの似姿に造り直すためであった。」と続けています。創世記一章二七節「神は御自分にかたどって人を創造された」を引いています。神の似姿として創造されたのは、自分のいのちがかりでなく、周りのいのちを生かす者として造られたということです。カルヴァンが言うところの「「あの像」とは、まさに神の息で生かされ人をも生かす神の似像のことです。
主のことを「侮辱し、唾をかけ、鞭打つ」者はだれか。大祭司、祭司長、律法学者、長老、下役、群衆、ピラト、兵士たち。一二人の弟子たちも主を裏切り逃げて侮辱しています。だれひとり例外はいない。だれもが、主に唾し殴打する者である。ここの「兵士たち」はその代表です。「おまえのような者が王だというのか」。マルコ福音書はここにわれわれすべての人間の思いを代弁させています。だれかに意地悪をされる、いじめられることは子どもも大人もありません。すると、赦せない相手を抱えてしまいす。教会で人のことは赦すものだと教えられればそのとおりだと思う。しかし、実際の場面ではわずかなことでも赦せず、むしろ自責の念に駆られます。神を信じたばっかりにやられたらやりかえす悪人になれなくて、辛さを増してしまう。「イエス様は本当にわたしの王としてわたしを治めていてくださるのだろうか」とも思われるようになる。そうやって、兵士たちと同じことをしてしまう。しかし、主はそんな者たちのために身を任せてくださった。人間の地獄に囚われていた者を連れ戻し造り直してくださいました。
ここには兵士たちのほかにもう一人の代表者が登場してきます。兵士と変わらない者が連れ戻され造り直されるとき、このシモンのようになれる。原文では21節は「無理に」で始まっています。「公用を強いる」という原意を持つ語です。王の伝令は、馬でも船でも自由に召し上げることができたことに由来するといいます。シモンはローマ兵によって徴用されました。主の弟子だからといのではありません。野次馬で暇そうだったからでもない。「畑から通りかかった(直訳)」ところをでした。自分の仕事をまじめにしているところを徴用されました。マルコ福音書はここに自分たち教会に召された者たちを重ねています。連れ戻され造り直された人間とはこういう人だと言います。
主の十字架を担ぐ公用を強いられる。それ自体が連れ戻され造り直されることです。シモンの息子たちの名前が出てきます。マルコの教会ではあの人たちのお父さんのことだなと分かったからです。息子の一人ルフォスの名が、来週から読み始めますロマ書16:13にも出てきます。シモンも妻もキリスト者になり教会とパウロに仕え、息子たちにも信仰を渡すことができたからです。わたしたちも、連れ戻され造り直されて、主に仕え、信仰を受け継がせる者とされていきたいと思います。
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