アドヴェントは待降節と訳されますが、言葉そのものには「待つ」という意味は含まれないようです。「やって来る」が原意です。ここから、アドヴェンチャー(立ち現れる)という語が生まれました。クリスマスはやって来るもの。神のみ子の到来ですから、わたしたちが待つより先に神の到来が第一のことです。必ずやって来るとの約束があるから待てる。今のわたしたちが再臨の主を待つのはこのためです。
黙示録は小羊の到来と言います(17節)。屠られた小羊、犠牲の小羊は人の罪を負うものです。その小羊が怒って来ると言います。この小羊は主イエス・キリストのことですが、主が怒りを隠さず露わにされたのは宮清めのときでした。感情の爆発ではなく神殿の回復という冷静な目的のためでした。黙示録の小羊の怒りは、「大いなる日」即ち「主(ヤーウェ)の日」のことです。ヤーウェの日は神の裁きとして迫っている。これが旧約聖書以来の神の到来の基本的な捉え方です。それなら、アドヴェントにはこどもが「もう幾つ寝るとお正月」と歌って喜び待つようにクリスマスを待つことはできないのか。しかし、聖書のクリスマス物語においても喜びばかりではありませんでした。洗礼者ヨハネの父ザカリヤは高齢の自分たちにこどもが授かると知らされると恐れました。マリアの夫ヨセフも許嫁の突然の懐妊に恐れました。マリア自身も天使のお告げに恐れた。時の王ヘロデは自分の王位が脅かされるといって恐れた。クリスマスにおいても神の到来は恐れであったと証言しています。
黙示録は、神の到来を大地震に象徴させます(12節)。この大地震が来ると太陽も月も本来の光を失い、収穫期になってもいちじくは青いままだと言います。不動と思われた地が揺らぎ、規則ただしく運行していると思われた天体が激変する。これが神の到来のイメージです。このたびの東日本大震災は、だれも見物など出来ませんでした。それと同じように神の到来も、だれも見物など出来ないとヨハネは言います。地上の王を始めだれひとり見物人ではいられない(15節)。すべての者が、「洞穴や山の岩間に隠れ〜かくまってくれ」と言う(15〜16節)。これは、旧約聖書ホセア書からの引用です。北イスラエルがアッシリア帝国の脅威に晒されたときの預言者です。神の民イスラエルが異教を導入し、神を畏れ敬わなかったことに対して、神はその罪を破壊されると預言しました。
ヨハネは「だれがそれに耐えられるであろうか」(17節)と言います。これは疑問文というより反語的です。「だれがそれに耐えられるであろうか。いや、だれも耐えられない」です。ヨハネは罪の破壊の厳しさを痛いほどに知らされています。神の裁きが来る前に死んでしまった方がましだと言い始めても無駄である。死んでも裁きは逃れられない。誰一人耐えられない。十字架に赴枯れる主もまた、このホセアの預言を引かれました。そして、小羊なるイエス・キリストは、ご自分のことを人々がお痛わしやと言っている場合ではないと言われました。「わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と。自分たちの罪に泣け。小羊の怒りは罪に対する怒りです。そして、小羊は、罪を怒って罪を破壊するために十字架に赴枯れました。神の到来は罪の破壊のためです。
そのとき、依然として誰一人この怒りに耐え切れません。誰よりも主ご自身がだれも耐えられないことを知り尽くしておられました。だからこそ、ご自分が十字架につかれた。アドヴェント・クリスマスのときから既にこのことは決まっていた。罪の破壊のために、主はやって来られた。そして事実、罪をご自身に負われました。ヨハネは、怒りに満ちた神の到来において、人はすべて恐れずにおれない部外者ではおれないと言います。そして誰一人耐えられない。だからこそ、罪を怒る小羊が神の怒りを一身に受けてくださった。ヨハネは15節の「隠れ」も16節の「かっくまってくれ」にも同じ語を当てています。誰も何もかくまってくれない。小羊だけが屠られた小羊だけがかくまってくれると強調しています。このことをこそ、恐れをもって信じるのだと訴えています。
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