この一ヶ月・アドヴェントの時を黙示録を読み続けて過ごしてまいりました。終末の破壊的な情景が描かれていました。しかし、ヨハネは終わりの日のことを描きながら、「今」現在、慰めを受けることが出来ると語り続けました。それは、しっかりと現在を見て取るところから始まっています。それは本日のこのクリスマス礼拝において読んでいます9章においても変わっていません。たとえば、6節の「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げていく」というところなどです。大げさでなく、死ぬより辛いことは実際にあります。ヨハネは死さえも見放す現実があるとこの6節で言っています。
また、「底なしの淵」(1節)とも言っています。確かに古代の世界観が反映していますが、これは古代人も現代人もなく、確かだと思っていることでも、底なしの淵の上にようやく浮かんでいるようなものだということです。だれにも心配ごとや労苦があります。この一年を振り返ってみても、人に言うかどうかは別にしても、どなたにもおありになったにちがいない。今でもそれを抱えたままでこのところに来ておられる方もいらっしゃると思います。しかし、その真相は死んだ方がましだと思わしめる底なしの淵からの誘惑にあります。
この底なしの淵からいなごの群が地上に出てきたと言います(3節)。その姿は大変勇ましい。馬に似ている、冠を着け、胸当てをし戦車の響きのような羽の音をたてている。それは、底なしの淵の使いを王として戴いているからだと言います(11節)。その王の名前はアバドンでありアポリオンであるとヘブライ語とギリシア語で記されていますが、どちらも「滅び」という意味があります。底なしの淵から飛び出してきたいなごの大群は、滅びの王を戴いている。人々を滅ぼすことを目的にして、これに仕えている。
ヨハネは滅びの王に支配されてしまっている人間の現実を見せつけられています。「大きな川、ユーフラテスのほとりに」(14節)といって、ここから滅び天使が解き放たれるとも言われています。「二億の騎兵」というのも暗示的です。大軍です。北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国はユーフラテス川に沿って栄えた国ですし、南ユダ王国を滅ぼしたバビロニア帝国もユーフラテス川を中心に栄えました。滅びをいやが上にも思い出させるのがユーフラテスです。そこから敵がやってくるというのに、人々は悔い改めようとしない。それほど滅びの王の支配は強力である。その強力さの秘密は「自分の手で造ったものについて悔い改めず」(20節)というところにある。「金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった」、これはただ目に見える像のことだけではありません。自ら滅びの王を戴いて支配されてしまっていることを言います。だれかのせいではない。自らの手で自らをその支配下に置いてしまった。労苦が続くと辛さが極まり、つい死んだ方が楽ではないかと思ってしまう。それこそ、実は自分で底なしの淵の王を造り、それを王に戴いて支配されているのだとヨハネは言います。
この滅びの王という偶像は十戒に反することをさせます(21節)。滅びの王を戴くとまことの神の御こころに反することになる。そして御こころに反する者は、自分のこころも無くすことになる。これではとうてい悔い改めるこころなど持つことはできません。しかし、ヨハネはこのもの凄い情景を描いて、もうこれでおしまいだと言うのではありません。この悔い改めのこころをなくしている人間の現実を描き出して、だれを王と戴いているかを問うています。罪人の作り上げた虚無のこころを王と戴くか、それとも、まことの神を王と戴くのかと迫っています。
クリスマス物語では、東の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」といってやって来ています。また、十字架のときには「これはユダヤ人の王イエスである」との罪状書が掲げられました。クリスマスにお生まれになった王、十字架に架かられた王を今こそまことの王として戴こうではありませんか。
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