札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「行いの律法か、信仰の律法か」
ローマの信徒への手紙3章21〜31
牧師 堤 隆
2月2日主日礼拝説教から抜粋
「教会の声」説教(2014年2月号)

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 本日の説教題は、希をてらうためにつけたのではありません。本日の聖書箇所からそのまま採りました。27節からです。「法則」と訳されていますが、この段落の最初と最後(21,31節)で「律法〜律法」と訳されているのと全く同じ語です。パウロはこの段落の最初と真ん中と最後で「律法〜律法」と繰り返しています。真の法と言いたいようです。真理と言ってもいい。27節は「行いの真理か、信仰の真理か」とも読めます。20節までにパウロは行いによって真理に至る者は誰一人いないことを旧約聖書を引いて指摘しました。その上で、21節で「ところが今や」と大逆転が起こったと語りだしています。律法を行うことによっては誰一人神の前に義とされないことが旧約聖書から明白なのだが、「しかし今や」、律法を行うことから離れて、律法の他に、律法自身が証していた「神の義が示され」ることが起こったと驚きと喜びをもって語り出しています(21節)。
 もちろん、人はみな正しくないのでご自分が最後の正義の砦として懸命に踏ん張っておられるということではありません。「神の義が現された」(直訳)というのですから、あっちにあるこっちにあると示すのではない。神の義がその姿を現したという。しかも、神おひとりが自分は義なる者だとたち現れるのではありません。義なる神が現れてくださると、ご自分の義を人に与えてくださることになった。これが、驚きであり喜びであるとパウロは言っています。この22節のところに気になることがあります。「信じることにより〜信じる者すべてに」です。これは、われわれが信じることが強調されているのではありません。この「イエス・キリストを信じることにより」は「イエス・キリストの誠実により」(直訳)と書いてあります。3節に出てきた「神の誠実」の「誠実」と全く同じ語です。そうしますと、わたしたちがイエス・キリストを信じることではなく、イエス・キリストの誠実によって神の義がすべての者へともたらされることを言います。「神の義は、イエス・キリストの誠実によって、すべての者に、即ち信じる者たちに与えられる。」信心が認められて義とされるのではなく、主イエスの誠実が取り持って神の義がすべての者に与えられる。神の義がすべての者に差し向けられていることに何の差別もない。
 どうして神は人を差別なさらないのかといえば、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(23節)からです。神の栄光とは只光り輝くことではありません。旧約聖書以来、神の栄光とは神の重さを言います。神様が重く扱われることです。神様が重く扱われるのと同じように、人も重く扱われる。それが、神と人との正しい関係でした。しかし、それが神を軽んじて自分自身のことも軽んじることとなってしまった。そこで神様はこの倒錯を一大転換された。「無償で、贈り物として、キリスト・イエスを身代金として」(24節直訳)、神の義を与えることによってです。ですから、「イエス・キリストを信じる者を義となさる」(26節)も「イエス・キリストの誠実からの者を」(22節と同じ)です。イエス様が神様に誠実を尽くして十字架に架かってくださることによって、わたしたちが今ある。
 だから、「人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)。それはどのようにしてか、「行いの律法によってか、信仰の律法によってか」と迫ります。もちろん信仰の律法によってでした。信仰の律法・真理とは、「神様は主イエスによってすべての罪人に、もう一度ご自分の栄光・重さをお与えになる」、こおのことを信じることです。ですから、「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」(31節)。神の真の法・真理を無効にすることは「断じてない」(口語訳)。信仰の律法は確立する。確かにされた信仰の真理によって、今こそわたしたち自身が、わたしたちの教会が確立されてまいりたいと思います。本日このあともたれます教会総会も、ひたすらに信仰の律法によって導かれ、支配される会議となるよう祈り求めたいと思います。


 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉