前段で、アブラハムは「信仰の父」と呼びうると語られましたけれども、それは理想の人物、模範生のアブラハムということではありませんでした。「不信心な者」の代表格の彼が連れ戻され続けたことを言いました。そんなアブラハムは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(17節)を信じたといいます。死んだも同然、無きに等しい者を呼び出して、命を与える神をアブラハムは信じた。彼は自分のことを死者・存在しない者と見なしていた。それをさらに「衰え〜宿せない」(19節)と具体的に語っていますが、ここは直訳すれば「死んでおり〜死んでおり」と書いてあります。「死者に命を与え」と言ったことに呼応しています。アブラハムの体もサラの母胎も死んだも同然であった。そんな二人に命が与えられました。若返ったのではありません。神様が約束された子どもイサクが二人の間に与えられました。
18節にも旧約からの引用があります。「あなたの子孫はこのようになる」は、創世記15章からの引用です。こちらはイサクがすんなり与えられたのではないことを言っています。二人の間に約束の子が与えれれることが信じられないアブラハムを外に連れ出して神が言われた言葉です。この直前で神は「天を仰いで、星の数を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言っておられます。それにつづけて「あなたの子孫はこのようになる」と言われたのでした。数え切れない、計り知れないことだけれども、確かに与えるとの神様の約束です。アブラハムの計画ではなく神の約束こそ確実であることが示されました。アブラハムはとうとう信じました。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(18節)たのでした。ここは直訳すれば、「希望に反して、希望を信じた」となります。禅問答ではありません。アブラハムは自分の希望するところではなく、神の与えたもう希望を信じたのでした。
そのようなアブラハムでしたから、「信仰が弱まりませんでした〜信仰によって強められ」ました(19,20節)。しかし、創世記の該当するところでは、この夫婦は神の約束を聞かされますと、面従腹背したとあります。ならば、パウロは読み違えたのか。そうではありません。「神は約束したことを、実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」(21節、創世記21:6,7)と言っています。信仰が弱ってしまった二人を神が変えてくださった。神がアブラハムの信仰を強めてくださった。神を嘲りわらう者が、神の業を喜び笑う者とされました。お笑い草にされたのではありません。神は信じることを無駄にはされませんでした。
「しかし、『それが彼の義と認められた』と言う言葉は、アブラハムのためにだけ記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます」(23,24節)。「わたしたちは〜主イエスを死者の中から復活させて方を信じる」者だといいます。死んだも同然のアブラハムに命を与えたもう以上の根拠が与えられている。本当に十字架に死なれた方を復活させるお力を持つ神だから、神が約束を実現してくださることは間違いない。わたしたちは主イエスを死者の中から復活させられた方を信じて義と認められました。合格、よろしいと認められたのではありません。「罪のために〜義とされるために」(25節)と繰り返されています。前の「ために」は理由ですし、後の「ために」は利益のことをいいます。主イエスは、わたしたちの罪の故に死にわたされ、たたしたちが義とされるようにと復活させられたと言っています。罪人が義とされる。罪人が救われて、死んだも同然の中から命を与えられる。だからこそ、希望は潰えない。「死者の中から」というのは、希望は潰えないことを言っています。どんなに抵抗できそうもない力を前にしても、わたしたちは希望を潰えさせることはない。神様が与え満たしてくださる希望をいただいて、アブラハムの足跡を、いや、主イエスの足跡を辿ってまいりたいと思います。
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