札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「恵みによる残りの者」
ローマの信徒への手紙11章1〜10節
牧師 堤 隆
 7月27日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2014年8月号)

 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」(5節)は「同じように、今の時においても恵みの選びに従って、残された者たちが生じています」(私訳)と読んだ方が、パウロの真意は伝わります。「かつてエリヤの時代に、恵みの選びによって残された者がいたように、今もそのようにして残された者たちが生み出されている」と語りだしています。
 エリヤについては列王記上に記されています。あらましを申しますと、エリヤはカナン土着の農耕の神バアルと対決します。そして、バアルの預言者たちに大勝利を治めます。ところが、時の王アハブの妻イサベルはバアル神の熱心な信奉者でした。王妃は夫の権力を笠に着てエリヤを追い詰めます。絶体絶命の窮地に追い詰められてエリヤはイスラエルの人々が「あなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました」(3節)と神に訴えます。そして、「わたしだけが残りました」=「わたしは、只一人残されました」(直訳)と云いました。わたし一人が後に残されましたと云っていますが、生き残って、助かった、良かったと云っているのではありません。「残された者」は旧約聖書では、もともと敗残兵を指す語が当てられています。戦死した戦友に対する後ろめたさを拭い切れない者のことです。 後ろめたく、生きて汚名をそそぐように生きてきたエリヤに対して神様は「わたしは、バアルにひざまづかなかっった七千人を自分のために残しておいた」(4節)と云われました。七千人が多い人数なのか、少ない人数なのか、よく分かりません。しかし、一人後残されたエリヤにすれば、1対7,000では比べものになりません。まして、七という数は旧約では完全数です。であれば、神様は一人残ったエリヤと同じ人々を完璧に残しておられたことになります。これはもう、数の多い少ないの問題ではありません。自分一人が後に残ってしまったと悔やんで後ろめたく思い悩んでいるエリヤに、神様は「七千人を自分のために残しておいた」と告げられました。後に残った者ではありません。「取っておいた」と云われました。エリヤ一人だけではなく、バアルにひざまづかなかった者を、他に大切に取っておいたと云われます。
 明らかに、パウロは自分をエリヤに重ねています。自分は一人、後に残されたのではない、取って置かれたのであった。そうして、そんなとっときの者は、自分一人だけでなく、七千倍にも及ぶ。神様は完璧に残してくださる。
 神のなさることは、完璧である。そこで、「現に今も」(5節)と云いました。神様のために取って置かれた者が=恵みによる残りの者が、現に今も生まれつつあると申します。ここで1節で「アブラハムの子孫」と云っていたことが思い浮かびます。そのまま読めば「アブラハムの種」です。取って置かれたアブラハムの種は、芽を出し七千倍もの実を結んだ。
 そこで、結論的に申します。残されて取って置かれた者は神の恵みを得、他の者はかたくなにされたと。具体的には、「神は彼らに鈍い心を与え」てだと云います(8節)。ここは「麻痺の霊」(直訳)と書いてあります。麻痺の霊が与えられたから目や耳が麻痺して、見えなくなったり聞こえなくなったりした。9節以下には、神様と共なる食卓のことが語られています。神と食卓を共にするほど親しい交わりを自分たちはしてきたのだと言って、イスラエルは自分たちを誇った。しかし、それでは自分を誇るのであるから、ひっくり返さなけらばならないとダビデは云っている。罠、綱、つまづき、罰でしかない。そうして、自らを高くそびえさせている背は曲げられよと。
 これは、いい気味だと云うのではありません。おごり高ぶる者は砕かれて、神様の恵みによって残される他はないことを云っています。この国で少数者のわたしたちは、うっかりすると少数を恐れるあまり、それをエリート意識でおごりにしてしまうかもしれません。そんなときにこそ、神様によって砕かれて、恵みによって残された者にされることを、いのり求めたいと思います。 

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