札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「偽善のない愛」
ローマの信徒への手紙12章9節〜21節
牧師 堤 隆
 8月31日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2014年9月号)

  愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「愛は非偽善的」(9節直訳)と標題のように掲げますと、パウロは「悪を憎み、善から離れず」と続けます。原典には「離れ憎む、善にくっつく(語源は膠)」と書いてあります。憎い者の顔を見るのもいやで離れるように、悪を憎んで離れるなら、それだけに留まらず、善と膠でくっつけられたようにぴたりと接着して離れない。これは、単なる理想を述べているのではありません。偽善の無い愛とはこうだと云っています。逆にお為ごかしの愛では、悪を離れず善にはくっつかない。
 さて、偽善のない愛の代表例は兄弟愛だと申します。これは肉親の兄弟ではなく、パウロはローマ教会に書いていますから、教会の信徒仲間のことをこう呼んでいます。教会での兄弟愛はどちらが上でどちらが下ということはありません。「尊敬をもって」と云いますから、相手を持ち上げておいて、密かに冷笑することはない。10節の「互いに愛し」は同語反復のような珍しい言葉です。「愛+愛する」で一つの単語になっています。「愛で愛する」とでも訳せるでしょうか。腹痛でお腹が痛いというような妙な言い方をしています。云いたいところは、偽善の愛で愛したところで、本物の愛にはならないということです。妙な自己愛やわがままな自己主張を忍び込ませた愛ではなく、純粋に神様に愛されているその愛で愛するしか、本当には愛せない。その純粋な神の愛で愛するときの様子が11節以下に語られています。「苦難を堪え忍び」といって、愛は只嬉しい楽しいというばかりではないと云います。更に、「主に仕えなさい」ともあります。ここは、他の聖書では「時に」とあったりします。改革者カルヴァンや現代の神学者のバルトといったひとは「時に仕えなさい」と読んでいます。曰く「今の時に目覚め、この限られた時の中で、時を生かし、時に仕える」と読んでいます。この世で浮き足立たず、現実を直視していきることこそ愛をいきることだと申します。
 さて、19節では「愛する人たち」と呼びかけています。けれども、ここでパウロは「自分が愛するローマ教会の人たち」と云うのではありません。もちろん、神様に愛されている人たちのことをこう呼んでいます。迫害してきたり、悪を仕掛けてきたりする者に出くわす。そんなとき、お為ごかしでかわしたり、嫉妬に悩むのではなく、「自分たちは神に愛されている者であることを思い出せ」と云います。自分を神様に献げ、この世に倣わない者は、神に愛されている者であることを思い出すようにといって励ましています。そのとき「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は云われる」(19節)。迫害してくる者のことは、呪いたくもなりますし、悪を仕掛けてくる者二は、悪を返したくもなります。喜ぶ者を貶し、泣く者を冷笑するのが世の常です。しかし、教会の兄弟、神に愛されているあなたがたは、そんなときにこそ、そこから自由になれと云います。復讐から自由になる。そうするためにはもう、復讐を神様にお任せする以外にありません。自分では手を出さない。人からされたことは、忘れようたって忘れられません。だから、神様にお任せする。そうやって、悪からはなれて、善にくっつく。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」(20節)敵であっても愛で接する。そうすれば、「燃える炭火を彼の頭につむことになる。」(20節)これでは相手もいたたまれなくなって、溜飲が下げられるというのではありません。当時のエジプトの習慣で、悔い改めの動作のことだと云います。相手が悔い改めに導かれるようにする。
 そうして、「悪に負けることなく、善を以て悪に勝ちなさい」(21節)と勧めます。嫌みなことをして反省を促すのではありません。もっと積極的です。ここは「悪に打ち勝たれることなく、善によって悪に打ち勝ちなさい」(直訳)です。悪に悪を返して打ち負かされるのでなく、悪には善を返して打ち勝つ。こえができるのは、自分を神に献げきっているときだけです。神様に任せきる、任せてよい。一切を神に委ねて、偽善のない愛に一歩踏みだそうではありませんか。

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