札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「実現する神の言」
ルカによる福音書1章26節〜38節
牧師 堤 隆
 11月30日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2014年12月号)

  六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
  マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 神の子メシアを産むとの告知に、マリアは人間の常識からして分からないと言い、困惑して「どうして、そのようなことがありえましょうか」と尋ねました。ザカリアが「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」といったようにマリアも「わたしは男の人を知りませんのに」といってお告げが信じられないと云いました。それなら、マリアもザカリアのように口を利けなくされたかというとそんなことはありませんでした。まだこどもの域を出ていなかったからと免除されたとも思えません。ここは、「みことばの継続」が第一であったようです。ザカリアにしましても、罰として口が利けなくされたのではありませんでした。専ら、み言に聴き入るために黙して耳を傾けさせられたのでした。ですから、マリアもみ言に聴き入ることが求められているにちがいありません。困惑の中で恐れていても専ら聴き入るようにと、尚、み言が語り続けられています。ザカリアにしましても、その口は塞がれましたが、耳までは塞がれることはありませんでした。
 わたしたちも同じです。わたしたちも時に言葉を失うような困惑や恐れに襲われることがあります。しかし、それでも耳は開かれています。継続してみ言を聞くようにされています。そこで、困惑するマリアに尚み言が告げられます。聖霊が降って、み言が実現すると言うのです(35節)。マリアは「男の人を知らないのに」産むのではなく、男の人を知らないからこそ産むのだと告げられたようなものです。人間の力ではなく、聖霊の力で神の子メシアを産む。神は全く人間を介することなく救いを起こされるのではないということです。無力なマリアでしたけれども、彼女をお用いになりました。人間の能力や可能性をお用いになるのではありません。専らみ言を聞き続ける者をお用いになります。
 エリサベトも二重の不可能性の中で、六ヶ月という可能性を得ているといいます(36節)。神様は人間の不可能性の中にメシアを生まれさせたもう。人間に可能性があるから救おうと云われるのではなく、可能性がないから救うとおっしゃっている。わたしたちはいろんな所で行き詰まっています。非力や無力が叫ばれます。現実を見よとも云われます。しかし、そこには罪が広がるばかりです。
 ここで、また名前のことが思い出されます。ザカリアは「その子をヨハネと名付けなさい」と命じられました。一方マリアは「その子をイエスと名付けなさい」と命じられました。ヨハネとイエス。これには意味があります。ヨハネは「主は恵み深い」ですし、イエスは「主は助けたもう」という意味があります。ヨハネからイエスへ。恵み深くある神の御意志が、助けるという御業へと進む。このように信じることが求められています。信じ込むのではありません。神様が人間の不可能の中に入り込んで来て救ってくださると信じる。これは理屈として受け入れるのではありません。わたしたち自身の中をのぞき込んでも不可能しかありません。そんな自分なのに、救われているという事実を信じます。どんな境遇にも、誰のところにも、救いは入り込んでくるという驚くべき事実を信じます。最後に、天使は告げました。「神にできないことは何一つない」(37節)と。天使は地上に実現する神の言を凛として告げています。
 そこで、口を塞がれることのなかったマリアが答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と(38節)。ここは「ごらんください。主のはしため」(直訳)と云っています。み言が分からないと云っていた者が、今では分かると申します。聴き続けたからです。そして、悟ったのでした。「はしため」にされたのだと。なにより、み言は実現すると悟りました。それではしためとなりました。仕える者となった。その時「天使は去って行った」と申します。務めを終えたからです。み言の告知が済んだからというだけではありません。み言が実現したからです。マリアは、み言を悟り仕える者とされました。ここにすでにみ言が実現しています。わたしたちも、この身にみ言が実現されている者として、ますます主に仕える者とされてまいりたいと思います。

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