札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「救い主は、あなたがたのために」
ルカによる福音書2章1節〜20節
牧師 堤 隆
 12月21日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年1月号)

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。羊飼いと天使その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
  天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 だれもが嬉しいはずの第一子誕生のはずですが、マリアとヨセフはそれどころではありませんでした。子を産もうとする二人は、絶大な権力者・皇帝によって押しやられていました。実際にふたりを泊まる場所から閉め出してしたダビデの町の人々もまた、押しやられた者たちでした。普段であれば、この人々も出産間近な者を見れば、何かと手を貸そうとしたはずです。家畜小屋に少なくとも繋いである自分の馬か驢馬を引き出して、二人に場所を空けてやるくらいの心遣いぐらいはしたはずです。また、赤ん坊が生まれてしまえばせめて母と子を暖かい部屋に移してやるぐらいのこともしたはずです。しかし、この町の人々は誰一人御子の誕生に気づきませんでした。庶民同志の、ささやかではあっても労ろうとする「心」が奪われていました。普段ならできていたいいたことができなくされていました。
 今のわたしたちは少子化問題を抱えています。なのに、お腹の大きな女性が乗り物の優先席の前に立っても席を譲らない、ベビーカーを押した若い母親が乗ってくると舌打ちする。日本の首都圏で日毎繰り返されることだそうです。人としての優しさが人々から奪われている。我先に、ひとのことなどかまっていられるかと、宿を占有する人々と変わりありません。ルカは人々を断罪しているのではありません。皇帝の権力がなせる業をきちんと見据えています。絶大な権力の下では自分のことは自分で守るしかないと言うのではありません。人々は普段から冷酷な者たちであったとは思われません。普通にどこにでもいる、むしろ善良な人々であったと思われます。それが、時の権力によって圧迫され混乱する中で困っている人には誰にでも手を貸すという庶民らしい優しさを奪われていきました。しかし、実にそのような人々のすぐ側で御子はお生まれになりました。優しさという心が奪われていく人々のすぐ側に、逆に御子の方が寄り添うようにしてお生まれになった。
 さて、これと時を同じくしてもう一群の「押しやられた」者たちがいました。住民登録に故郷に帰れと言われても、故郷など無い羊飼いたちです。人数を数えたところで何の足しにもならない者たち、人数分の税金を取り立てることのできない者たちでした。全く低く、最底辺に暮らす者たち。そんな羊飼いたちに天使が現れますと、彼らは「非常に恐れた」といいます。この恐れは何か。襲いくる獣の飛び出す夜陰を恐れたのではありません。「主の栄光が周り照らしたので、彼らは非常に恐れた」。闇ではなく明るさを恐れました。闇は人目から隠します。悪事は陰でこそこそとなされます。そこに光がさせば恐れるばかりです。羊飼いたちは闇の中で悪事を働いていた訳ではありません。「夜通し羊の群の番をしていた」です。職務に忠実でした。では何を恐れたのか。この羊飼いたちは庶民とも言えない低い立場にありました。権力さえ相手にしませんでした。自分たちでもその低さ・数に足りなさを何とも思わなくなっていた。何を云っても、何をしても、いかんともならない。もう諦めていた。心が鈍くなり、すっかり心を無くしていた。町の人々と変わりなかった。そんな姿が白日の下に晒された訳です。これはもう恐れるばかりであったに違いありません。
 そんな「大きな恐れを恐れる(直訳)」羊飼いたちに、天使は「恐れるな」と声をかけますと、続けて「大きな喜びを告げる」と云いました。大きな恐れではなく、大きな喜びを。救い主があなたがたのためにお生まれになったからだと申します。低きに佇み、心も鈍く、いや心を無くしている者たちへの救い主がです。そのしるしが、産着一枚で飼い葉桶に寝かされているお姿そのものでした。低きに降る救い主が「あなたがたのために」お生まれになったことのしるしでした。それで「いと高きところに栄光、神に。地には平和、人に。」(直訳)との賛美が響きました。天と地が、栄光と平和で結ばれたことを賛美しています。神の栄光が人の平和となって地上に現れ出た。
 それで、闇に佇んでいた羊飼いたちは立ち上がりました。自らの救いを見ようと言ってです。わたしたちも今ここで救いを見させていただこうではありませんか。

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