札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「主イエス登場」
ルカによる福音書 3章21節〜 4章13節
牧師 堤 隆
 1月25日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年2月号)

  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、/マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、/マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、/ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、/メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、/ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、/シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、/メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、/エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、/アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、/ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、/ セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、/カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、/メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、
エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。
  さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 天と地が繋がれる発端が主イエスの受洗であったと云うと、すぐにルカ福音書は「イエスが宣教を始められたとき」と云います。そして長い系図が続きます。神の子はヨセフの子と思われていたと云って始まります。そして、「アダムは神の子」(直訳)に至ります。アダムは最初から神の子ではありません。神が産んだ子ではなく、神が造られた人間です。それが、主イエスの系図を遡るとき「神の子」と呼ばれる。主がヨセフの系図に加わってくださったからです。それで逆にアダムに始まる全人類が神の子にされることになった。主の宣教はすべての民を神の子に加えることでした。
 主はヨルダン川で洗礼を受け聖霊を注がれますと、つぎに「荒れ野の中を"霊"によって引き回され」ました。(1節)引き回されてというのは、いかにも無理矢理にとかさらし者にされているようですが、ここは原文では「導かれ」と書かれています。主は荒れ野の中でも、聖霊に導かれておられた。命を生かさず殺してしまう荒れ野にあってもです。ですから、この荒れ野はただ水も食べ物もないというだけではありません。「人の」いのちを生かさず殺すものの象徴です。それをルカは「悪魔」と呼びます。
 荒れ野の悪魔は、まずパンの問題を主に突きつけました。「こんな荒れ野で空腹になってさぞ辛いだろう。しかし、お前は何でもできる神の子だろう。そえなら、この荒れ野に転がる石ころをパンに変えたらいいではないか。さあ、やって見せろ」と。これはわたしたちのこころの底に巣喰う悪魔的思いの発言です。自分はちっとも悪くない。悪魔が誘惑するということではありません。わたし自身がわたしを誘惑するのです。自分で自分を誘惑するのが罪人の罪人たる所以です。悪魔が人はパンだけで生きるものだと云うものですから、「人はパンだけで生きるものではない」ときっぱりお答えになりました。パンだけで生きると思いこんでいるのは、わたしたちです。飢えたら何をしてでもパンを手に入れるしかない。何をしてもかまわない。まさにこのこころは殺伐をした荒れ野です。それで、主は父なる神のことばに生きて悪魔に勝てと云われます。
 悪魔はそれでも誘惑を畳みかけます。「権力と繁栄」を持ちかけます。しかし、これは単に権力欲や名誉欲を云うのではありません。支配と栄光を云っています。パンの誘惑の続きです。人はパンだけで生きていくことだけがまかり通る。それが世界を支配している。悪魔は大変現実的です。衣食足りて礼節をしると云いますが、前半だけが一人歩きしてしまいます。衣食足りて悪魔を拝むことになってしまう。それで主は拝むべきは神のみとお答えになります。すると、悪魔はなおもすがりつきます。みことばで答えられ続けるものですから、悪魔はとうとうみことばで対抗します。悪魔が引いてきたのは、神様に対する信頼の表明の箇所です。悪魔はそれを逆手にとって、そこまで信頼しているのなら実際に助けてもらえと迫ります。「こんなに教会に通い詰めているのですから、神様、わたしに味方してくださってもいいではありませんか。そのために、神様、わたしは信じているのですよ」。そう言いたくなる。しかし、それは悪魔が神を試みるのと同じである。だからこそ、主は荒れ野に生きてしまうわたしたち人間への誘惑をすべて身に負って、荒れ野に登場してくださいました。
 荒れ野での悪魔の誘惑は、これだけには終わりませんでした。「時が来るまでイエスを離れた」(13節)だけでした。ということは、また来ることが暗示されています。それで悪魔の再来をルカ福音書は報じてします。「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」(22:3)こうして悪魔は再び主の前に現れ出ました。そして、このサタンが入ったユダによって裏切られて、主は十字架にお架かりになりました。サタンに負けてしまわれたのではありません。主を裏切ることさえ辞さない人間の荒れ野が、実は逆に十字架によって滅ばされたのでした。主イエスがわたしたちの荒れ野に登場してくださって、その荒れ野に勝利してくださいました。この十字架の勝利の主によって神の子とされ、わたしたち自身のつみと戦ってまいりたいと思います。

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉