札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「幸いへの召し」
ルカによる福音書 6章12-26節
牧師 堤 隆
 4月6日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年5月号)

 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 祈りに徹した夜が明けると主は、12人を選んで使徒とされました。この「使徒」の原語には「遣わされた者」という意味があります。主に呼ばれて、遣わされる。主の教会の歩みはこの使徒たちによって進められることになります。教会の基礎となる人たちでした。だからといって、使徒たちはエリートの精鋭部隊ではありませんでした。シモンにはこのときペトロという名前が与えられました。あだ名ではありません。ペトロには「岩」という意味があります。主は使徒を代表するようにして、シモンを岩に任命されました。将来の教会の基礎となるように、堅い岩となるようにとの思いを込めてです。
 ところが、この主のご意図に反するような者のことが紹介されています。「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」。ルカはユダのことが腹立たしいので、こう紹介するのではありません。あるいは主は人を見る目がなかったと言うのでもありません。「後に裏切り者となった」と言っています。最初から裏切り者が紛れ込んでいたのではない。これは使徒たちは必ずしもエリートからなる精鋭集団ではなかったことを言っています。ユダのみならずペトロを始めほかの10人も、十字架のときには皆逃げ去りました。12人は皆主の「岩たれ」との期待を裏切りました。それでも主はその弱さや破れを秘めた者たちを、あえて使徒に任命されました。将来、教会の堅い基礎となる者たちは弱さや破れを抱えていましたけれども、主のご委託が第一でした。
 この使徒・弟子たちに、いわゆる「平地の説教」が与えられます。マタイ福音書の「山上の説教」とは異なるところがあります。平地の説教では後半で「不幸である」ことが繰り返されます。マタイにはないことです。もちろん、世の中には幸せな人もいれば不幸な人もいるなどと主は言われるのではありません。問題を抱えながらも、主の下に来て癒された人・救われた人のことを「幸い、貧しい者」(直訳)と言われます。貧しく、飢えて、泣いている者たちが、どうして幸いなのか。むしろ、富んでいて、満腹し、笑っている人のほうが幸せそうです。ところが、主は「幸い、貧しい者」と言われます。そうしますと、ここで語られている幸いとか不幸ということは、常識的なものとは違うようです。富んでいる者が不幸であるとの理由を主は「あなたがたは自分の慰めを十分に持っているから」(24節直訳)と言われます。自分で自分を慰めることは、本当の慰めにならない。富んでいる、今満腹している、今笑っている。そのことをもって自分は幸せだと、自分で自分を慰めるのであれば不幸だと主は言われます。呪っておられるのではありません。「不幸である」というところは「ウーアイ」と発音します。思わず漏れる「ああ」と同じです。「ああ、悲しや」と主は呻いておられます。自分で幸せをい作り出してそれで自分を慰めるのでは、いつでもそんな幸せ・慰めはしぼんでしまう。貧しくなったら、飢えたら、泣いたら、幸せも慰めもなくなってしまう。ああ、こんな悲しいことはないといって主は呻かれます。
 しかし、主の語られる幸せは「神の国はあなたがたのものである」という理由によります(20節)。神様のご支配の内に入れられる幸い。神様は放ってはおかれない。誰もが見捨て、自分でも自分のことを持て余している。しかし、神様はそんな者を神の国へと招いてくださる。貧しくたって、飢えていたって、泣いていたって、神様はわたしたちを掴んでお離しにならない。この幸いへの招きが今あるのだとルカ福音書は強調しています。
 人に憎まれるとき(22,23節)と人にほめられるとき(26節)も対照されています。「人の子のために追い出され」るのは、人の子イエスを主と信じ告白すると迫害されることを言っています。明らかにルカは自分の教会に重ねています。これと対照して偽預言者となってこの世に迎合することが述べられています。ルカは自分たちの教会は、どちらであるべきかと迫っています。主の説教から自分たちの教会のあるべき姿を知ろうではないかと訴えています。わたしたちの教会もみことばに促されて、幸いへの召に与りたいと思います。
 

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