札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「新しい心、新しい霊」
エゼキエル書36章22節〜32節
牧師 堤 隆
 5月24日 聖霊降臨日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年6月号)

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。
 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 危機の時代、終わりの時代に、エゼキエルは「石の心」を目の当たりにして、何を神様から聴いたのか。神様は、はっきりと「わたしはお前たちのためではなく〜わが聖なる名のために」(22節)と言われます。神は、「わたしはお為ごかしはしない」と言われる。むしろ、誰のためと言うなら自分のためだ、自分のために新しいことを始めると言われる。新しい心と新しい霊によって石の心をかこつ人間を新しくする。その理由が「わが聖なる名のため」です。エゼキエルは神の慈しみとか憐れみといったことは一切言わず、ただ「わが聖なる名のため」、即ち「神の神たることの故に」と言います。神はご自分のために人間を新しくされる。そこには「神は人の罪のために、罪によって動かされるお方ではない」という確信があります。捕囚民が嘲られても何も感じず何も言わなくなっているときに、神様は「わが聖なる名を惜しんだ」(21節)と言われます。民のために何とかしてやろうとか、罪を放っておけないからというのではなく、ご自分が汚されることを惜しまれた。
 だからといって、神はその聖さのために孤高を保っておられるのではありません。この「惜しんだ」はただ心の動きだけをいうのではありません。ある人は「わたしの聖なる名のために彼らを赦した」と訳しています。神は嘲られても沈黙し何もできないと人々から思われている時にも、実は働きの手を休めてはおられなかった。そこで、「神はただ神たる故に行動される」ことが語られます。「取り〜集めて〜導き入れる」(24節)。物同然となり「石の心」をかこつ人間をその自己疎外の中から取りだし、集めて、導かれる。つぎの「清い水をお前たちに振りかけるとき」(25節)というところの臨場感たっぷりの私訳を見つけました。曰く「神はザアザアとたっぷり水をぶっかけゴシゴシ洗い清める。汚れや垢がご自分にふりかかるのも構わずに」。この情景はまさに、神は人間の神不信という汚れや垢をご自分についた汚れのごとく、我がこととして、一心に洗っておられる様子です。そして更に「新しい心を与え〜新しい霊を置く〜肉の心を与える〜わたしの霊を置き」(26節)と続きます。このところの4つの動詞は原文では皆「与える」です。
 新しい心を与える、石と化した心をお取り除いて新しい肉の心を与える。更にその新しい肉の心に新しい霊、わたしの霊を与えると神は言われます。この「新しい」はただの新しさではありません。何かの刷新、更新では収まりきらない新しさを言っています。それまでのものとは全く違うものを新しく与えると神は言っておられます。「そのとき人々は、『あれ果てていたこの土地がエデンの園のようになった〜』と言う」(36節)。神が神たることのために行動だれると、あれ果てていた地がエデンの園のようになったといいます。神様は、石の心の人間に新しい心を与え聖霊を注いで、人間を再創造しておられます。エデンの園にいた堕罪以前の人間、肉の心を持って神様の前に立つ人間を創造しておられます。聖霊によって新しい人間が再創造されるとき、そこに新たな神の民が創造されます。聖霊を受けるとき、わたしたちの教会も創造されます。この神様の業は天地創造のときの創造と同じですから、全世界に及びます(29〜30節)。あれ果てた石の心は全世界に溢れています。だからこそ、神様は信仰者と通して、教会を通して、再創造を始められます。神様を未だ知らない人々、正しく知らない人々のためにも神様はこの再創造のてを休めず働かせ続けておられます。「わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき」(23節)と言っておられます。世界中のひとが石の心を取り除かれて肉の心を与えられる。それは、「お前たちを通して」だと神様は言われます。神様を汚してしまった「お前たち」でした。しかし、そんな汚れた者が再創造されて、神様に用いれれれるにまでされます。
 この「お前たち」こそ、わたしたちのことです。新しい神の民・教会に伝道が託される。今こそ、新しい心と新しい霊を受けて、神様から託された宣教のみ業に遣わされてまいりたいと思います。
 

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