札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「伝道者誕生」
ルカによる福音書8章26節〜39節
牧師 堤 隆
 8月30日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年9月号)

 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



  嵐の湖で、真の弟子への回復が始まっていました。そして、そのための目的地に着いたと26節は告げています。ところが、主と弟子たちだけの所に水が入るようなことがおこりました。悪霊にとりつかれた男がやってきたからです。この男は主を見ると叫び出しました。それは主が「汚れた霊に男から出るよう命じられた」からでした。主の方が先手を打っておられます。実際のことの運びはこうではなかったかと思われます。即ち、悪霊にとりつかれて気の毒なことになっているこの男の人を、主はご自分の方から出迎えておやりになると、さっそくそのとりついている悪霊に立ち向かって行かれて、男から出るようにと命じられた。それで、悪霊は悲鳴を上げた。
 「かまわないでくれ」と悪霊は叫びました。古代の人は原因の分からない病気などを悪霊のせいと考えた。だから、聖書でもこのような悪霊の発言として書かれていると説明されます。しかし、著者ルカは医者であったと言われます。もしも、ここで病気のことが言いたかったのなら、ルカはもう少し医者らしい言い方をしたはずです。引きつけを起こしたらしいとか、何とか言えたはずです。しかし、ルカはそんな病状は語りません。やはり、ここは悪霊のことを語ろうとしているのだと思われます。悪霊は神と無関係でいさせてくれと叫んでいます。神に向かって、かまわないでくれ放っておいてくれと言わしめているのが、悪霊であるとルカは申します。そういうことでしたら、現代に生きるわたしたちも、こういう悪霊にとりつかれることは大いにあり得ます。神様を抜きにして、神と無関係に生きてしまうことが実際にあります。自分の力でやっていけると思うとき。自信満々でだれの助けもいらないと思うとき。神の目を盗んででも勝手に気楽にやりたいと思うとき。いくらでもあります。聖書はこんな時こそ、悪霊が待ち受けている時だと申します。神様から引き離すものはすべて悪霊のなせる業だと警告しています。
 この悪霊のなせる業はおとぎ話の世界のように甘くありません。「家に住まないで墓場を住まいとしていた」、「荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。生きた人間が住む家ではなく、死人が入れられる墓場をすまいとしていた。そしてまた、人の住めない荒れ野へと駆り立てられていた。これは、神から離れたらだれにも束縛されずに自由に生きられるかというと全くそんなことはない。むしろ、生ける屍となって荒涼としたところでしか生きて行かれないことを象徴しています。
 主は悪霊にこの男から出ていくよう命じられました。しかし、悪霊はそれ自体で存在できないことが明らかになります。男を出て、自分たちだけでは存在できない、実体がないものですから、豚に乗り移らせてほしいと願いました。しかし、豚が神を信じるとか神から引き離されるということはありませんから、とうとう悪霊は自滅するしかありませんでした。
 さて、この一人の男のためにたくさん豚がおぼれ死にました。一人の男の救いのために、町や村の人々の生業が失われました。みなそのことを恐れるばかりで、一人の人間の救いには無頓着でした。人を経済効果でしか計らないところは現代と変わりありません。ゲラサ人もまた悪霊にとりつかれていました。
 救われたこの人は主のお供をしたいと申し出ました。ところが、主は男をお帰しにんりました。この人が、手助けにならないとか足手まといになるからという理由からではありません。この男の故郷で神様が自分にしてくださったことを話すためでした。主はここで一人の伝道者をお立てになった訳です。そして「神があなたになさったことを」のみで伝道出来ることを説かれました。このとき、主に伴っていた弟子たちはこれを間近で見聞きしていたはずです。伝道者とはこういう者のことだと、直に見せていただきました。主はこうして、実地教育で弟子たちをまことの弟子に再生させられました。
 一人の伝道者が誕生させられ、たった一人悪霊渦巻く地へ帰されました。しかし、その人がいるだけで伝道が始まると主は確信しておられます。わたしたちも今ここで伝道者としてさせられ、み業に仕えて参りたいと思います。  
 

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