札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「受難のメシア」
ルカによる福音書9章18節〜27節
牧師 堤 隆
 9月27日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2015年10月号)

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
  イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 ペトロは主から「わたしを何者だと言うのか」と問われて、「神からのメシアです」と答えますと、すぐに「叱りつけ(21節の『戒め』の直訳)」られました。どこも間違ってはいないと思われる答えですのに、どうしてなのか。弟子たちはこの直前で五千人の供食に立ち会っていました。五千人もの人を満腹にしておやりになったことを目の当たりにして、この人こそやがて王位について大勢のひとを助けることのできる「神からのメシア」であろうと考えたようです。ところが、ルカ福音書において主のことをこのように呼ぶのは、主と共に十字架に架けられた犯罪人です。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言って嘲笑しました。十字架に架けられるような者はメシアではあるはずがないと言うのでした。主は弟子たちの答えがこれと変わらない、受難するメシアとは微塵も思っていないので厳しくお叱りになったものと思われます。  主は続けてご自身の受難予告をされました。「イエスは皆に言われた」といいますから、ペトロにだけではなく他の弟子たちにもです。そう言ってルカの教会の人にも語られていることだと暗示しています。ならば、北一条教会のわたしたちにもです。神からのメシアは受難のメシアである。主はその内実をお教えになっています。主イエスを何者と言うか。これに答えることは問われた者の態度表明になります。口先の言葉だけでは答えたことになりません。神からのメシアと呼ぶ者とは「わたしについてきたい者」のことだと主は言われます。この「わたしに」というところは「わたしの後ろに(直訳)」と書いてあります。主の後ろについて行くことが主に従うことだと言われます。ただ後ろからついて行くだけではありません。主イエスのことをメシアと呼んだら、そのお方の後ろから従って行くことになる。後ろに従えば、前を行く方と同じように歩んで行くことになる。どのように同じになるかというと「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」いくことになるとおっしゃいます。十字架を背負っておられる主イエスの後ろからついて行くなら、その主の十字架の一端を背負う他はない。それが主に従うことである。
 「自分の十字架」といいましても、自分の苦労とか自分の辛い負い目というようなことではありません。この自分の十字架を負うとは具体的には「わたし(主イエス)のために命を失う」(24節)ことだと言われます。「わたしのために」といいましてもただ主のお手伝いをするというのではありません。主の十字架を自分の十字架とすることです。かといって、皆が皆、殉教すべきだとおっしゃるのではありません。先程、犯罪人が「おまえはメシアではないか」と嘲笑したと申しましたが、そのとき「自分自身を救ってみろ」と言っています。主ご自身は十字架に架かられたとき、ご自身を救おうとはなさいませんでした。自分で自分を救うことはなさらずに十字架を負い通されました。なたば、わたしたちが主の十字架を自分の十字架として負うときも、自分で自分を救わないことになります。それで、全世界を手に入れても自分の命の役に立たないからです(25節)。全世界をもってしても、わたしたちの命を救うことはできない。主イエスの十字架以外のもので、自分を救おうとしない。それが自分の十字架を負うことになります。
 さらに教えが続いています。「わたしとわたしのことばを恥じる者」(26節)のことが言われています。みことばを恥じるとは、そんなものでは自分は救われないと考えることです。あるいはただ今申しました意味でじぶんの十字架を負うことをしないことです。十字架を重い辛いと言って投げ出してしまう。それが恥じることになります。しかし、主の十字架を自分の十字架として負うことは、むしろ光栄なことです。自分で自分を救うのではなく、主の十字架で救われる。そして、その十字架の主の栄光にわたしたちも与る。僅かばかりでも人に手を貸す、教会のために祈る。それだけでも主の十字架を負うことになります。こんあ光栄なことはほかにありません。受難のメシアの救いに今ここで与って、光栄ある業に遣わされてまいりたいと思います。
 

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