札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「人間の姿になられた神」
フィリピの信徒への手紙 2章6節〜11節
牧師 堤 隆
 12月20日 降誕節主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2016年1月号)

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 今年の待降節を、いわゆる「クリスマス物語」を読むことなくルカによる福音書の連続講解説教を続けて礼拝を守りました。主イエス・キリストを待つこと・お迎えすることはクリスマスに限ったことではにことを確信することを願ってのことでした。私はこの試みを礼拝・祈り会委員会で「挑戦してみたい」と持ちかけました。このようにして始まったのですが、これは「わたしの挑戦」ではないことにすぐに気づかされました。礼拝の度ごとに、主を待ち・お迎えする信仰が新たにされました。夕礼拝でも、申命記の講解説教を続けましたが、主イエスの系図にある祝福の系譜へと導かれました。また、祈り会でも詩編113篇からマリアの賛歌にある主のあわれみに導かれ、さらにこの詩編が本日のフィリピの信徒への手紙2章6節〜11節にそそぎ込んでいることを知らされました。待降節、降誕節のみことばがたち現れてくることを次々に経験させられました。待降節=アドヴェントはラテン語のアドウェントゥスを語源としているといいます。「到来」の意があり、動詞になると「迫ってくる」となります。わたしたちは待降節の日々を、主がたち現れてくださることを経験しながら過ごすことができました。
 そこで、アドヴェントに導かれましたフィリピの信徒への手紙2章5節〜11節を読んでクリスマスのみことばを聴きたいと思います。
 この聖書の箇所はパウロの思想ではなく、パウロも教会で唱えた「キリスト告白」であると考えられています。ひと言で言えば、「神が人間の姿になられた」と告白しています。ある神学者が「宗教は信仰に対する最も極端な対立物である」と言っています。「人から神へという企てが宗教であるから」というのがその理由だと申します。パウロの時代、人間のローマ皇帝は自らを神と称し、支配民にもそう唱えさせていました。それは絶対的な支配を及ぼすためでした。そんなローマ帝国の中にあったフィリピの教会にパウロは、「自分たちが信じている神は人が神になったような神ではない」ことを明確にしました。それで、「キリストは〜神と等しい者であることに固執しようとは思わず〜かえって自分を無にして〜へりくだって(6〜8節)」人間の姿になられたのだと伝えました。
 また神が人間の姿となられたのは、人の思いや偶然によるのではないと申します。「〜思わず〜無にして〜へりくだって」と、いずれもキリストのご意志によることであると言っています。このキリストのご意志は「十字架の死にいたるまで」の「従順」でした。キリストが神への従順に徹せられると、十字架の死に至った。もちろん、地上の人間がキリストを十字架につけたのでした。もしも、キリストが神と等しいまま天上におられたならば、十字架にお架かりになることはなかったはずです。しかし、地上の人間は神への従順・へりくだりがもたらされるとこれを拒み退けました。そうして、罪の姿を晒しました。
 しかし、教会の信仰告白では、そこに同時にキリストの従順・へりくだりが現されていると告白します。神が人間の姿になられたのは、罪ある人間と連帯してくださったことになります。連帯は帯で結ぶようにして一体になることを言います。キリストは真の人として・まっとうな人間として、罪人と連帯してくださいました。本来の人間の姿を無くしてしまった者たちと連帯してくださいました。損得勘定に明け暮れる日々、自己保身に走る日々、他者が目に入らない日々を過ごす者たちと連帯してくだしました。それらの者たちのすべての過ちを一身に負ってくださるという連帯です。すべての罪人を真の人間に連れ戻すためです。
 パウロは人間の姿になられた神との信仰告白を教会の一致という文脈(2節〜5節)の中で引用しています。教会も宗教に堕する危険がある。人間の姿になられた神への信仰をないがしろにして、単なる宗教団体に堕する危険があると指摘します。だからこそ、キリストに連帯されて歩もうと訴えました。それは専らに「イエス・キリストは主である」と言って、父である神をたたえることだと申します。人間の姿となられた神を主と告白しようではありませんか。
 

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉