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主は開口一番「思い悩むな」と命じられます。こう言われるのは、わたしたちが思い悩むことの多い者であることをよくご存じだったからです。しかし、だからといって深刻ぶって人生を捉えようなどと思わず、むしろ脳天気のほうが楽だとおっしゃるのではありません。何事も自分がしなければ自分で切り開かなければと思い詰めて、却って自分に固執してしまう者のこころを解き放ってあげようと言ってくださいます。「野原の花」が「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草」であっても、それでも、「栄華を極めたソロモン」以上であり、「神はこのように装ってくださる」。だから、「まして、あなたがたにはなおさらである」。自分の中ばかりのぞき込み俯く目を、ふっと上げてくださいます。
自分の「命」・「体」のことで「思い悩むな」と繰り返し言って(22,25,26節)、こころを解きほぐしてくださると、もう一度「なにを食べようか、なにを飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」(29節)と締めくくられました。前の三つは「分ける」という言葉から来ているのに対して四つ目は「騒ぐ」から来ています。だれも助けてくれない世の中で、自分で自分を生かさないで一体だれが生かしてくれるというのだと騒ぐ。しかし、主はもうそのように騒ぎ立てなくてもいい、わめかなくてもいいと言ってくださいます。
「騒ぐな」と直接に命じられているのは「小さい信仰の者」(28節直訳)です。明らかに「より大きい」(23節)と言われたことに対比されています。より大きい命・体の者であるのに、より小さい信仰の者になっている。より小さい食べ物・衣服のことしか考えていない。これでは自分の畑が豊作であったあの金持ちと同じです(19節)。自分で自分を褒め、楽しませ、喜んでいる。それでは自分で自分を神様から分けて騒いでいるだけです。そんな「小さい信仰の者」であっては「世の異邦人」(30節)と同じだと主は言われます。異邦人とは神を信じない者のことです。神様抜きで自分の命・体を捉えて、神様にはなんら求めない。しかし、「あなたがたの父は〜必要のことをご存じである」。求めなくても必要を知っていてくださる。だから、求めなくてもよいと言われるのではありません。むしろ、求めるべきを求めよと言われます。「神の国を求めなさい」(31節)は「彼の国を」と書いてあります。その「彼」とは「あなたがたの父」のことです。「父なる神の国を求めなさい」と主は言われます。与えてくれるかどうか分からない人にではなく「父」に求める。「子」の必要を知り、与えるに決まっている父に求める。求めるものは「神の国」。神のご支配。神様がわたしたちを所有して治めてくださることを祈り求める。そうすれば、神様はその祈りに応えてくださる。命という目的のために、食べ物も衣服も「加えて与えられる。命のために必要な食べ物・衣服の大切さを決してお忘れになっていません。
さて、主は「小さい信仰の者よ」と呼びかけられますと次に、「小さな群よ」(32節)と言い換えて呼びかけられます。ルカはここに自分たちの群=教会を重ねて聴いているようです。「自分の小ささをかこつ者たちは、小さな群でしかない。小さくしか信じない者たちが群れても、小さな群でしかない」と主は下げすんでおられるのではありません。すぐに「恐れるな」と言っておられます。自分たちの小ささを恐れることはないと励ましてくださっています。「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」からです。小さい信仰小さい群を、神様はご自分のものとしてくださいます。そのために「自分の持ち物を売り払って施しなさい」(33節)と言われます。この「持ち物」は15節で「人の命は財産によってどうすることもできない」の「財産」と同じ言葉です。しかし、その財産が神の国では神様の御用に用いていただける。それで「宝を天に積みなさい〜富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言われます。だから、命の在りかが天の父なる神のもとにあると信じる。わたしたちも命の在りかを確信して御用のために用いられたいと思います。
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