札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「時を見分ける」
ルカによる福音書12章49節〜59節
牧師 堤 隆
 2月28日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2016年3月号)

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



  「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(56節)と主は群衆のことを主は訝っておられます。「空や地の模様」は「空や地の顔(直訳)」と書いてあります。顔をきちんんと見分けるのは正面からでないとできません。ですから、主は「どうして、今の時を真正面から見ないのか」と言っておられます。真正面から見ないので「偽善者」と呼ばれます。自分を偽るというよりも、正しい時を見ない者をこう呼ばれます。ここで「見分ける」ことの大切さが言われています。私は神学性の頃、ギリシア語原典講読を竹森満佐一先生から教わりました。4、5人しかいないクラスでだれか一人を立たせて、一対一の教授でした。わずか数節を100分かけて読むという授業でした。そのとき、「見分ける」という語を次の授業の時までに調べて来るようにという宿題が出されました。何でもない宿題です。その場で辞書を引けば直ぐに答えられる宿題です。私の辞書には「試験する、検証する」とありました。つぎの時間に辞書にはこう書いてありましたと答えましたところ、竹森先生は「辞書を引いただけで分かったつもりになってはいけないのだよ」と言われました。そして、この「見分ける」という語は鉱石を精錬して純粋な鉱物を取り出すところからきていることを教えてくださいました。金属を含んだ鉱石を精錬して純粋な金属を取り出す。この時以来、私には忘れられない言葉になりました。主は原石の中から純粋な「時」と取り出しなさいと言われる。地上の平和にはいろんな不純物が含まれている。だからこそ、神の国に紛れ込んでいる不純物を取り除く。神の国に紛れ込んでいる似非平和を取り除きなさいと言われます。
 主は重大な決意をもってエルサレムに向かっておられました。十字架と復活によって神の国をもたらす覚悟をしておられました。それで、その時を見分けることを、偽善者である群衆にも求められました。だれも、無関係でいられる者はいない。時を見分けることは、天気予報のようなものではないからです。「あなたがたは、なにが正しいかを、どうして自分で判断しないのか」(57節)とあります。社会正義とか公正さのことではありません。自分の正しさのことでもありません。神様のご意志にかなう正しさです。主はご自分の十字架と復活を神様のご意志に叶うものとして「洗礼」とおっしゃいました。この神のご意志は偽善者・群衆にも向けられています。投げ出すことのできないものとして、みこころが差し向けられています。57節では「あなたがた」と二人称複数であったのが、58節以下では「あなたがた」と単数に変わっています。群衆を烏合の衆から分裂させて、ひとりひとりを引き出して「あなた」と呼んでおられます。神の御心が差し向けられている掛け替えのない「あなた」だとおっしゃっています。そして、「あなたは、今の時を、どのように見分けるのか。どう精錬するのか。」と問うておられます。もちろん、桃源郷を夢見るのではありまあせん。主の喩え話は厳しいものです(58〜59節)。「あなた」は偽善者と呼ばれていた群衆の一人一人です。ですから、正しい者はこの喩えには出てきません。役人、裁判官の所に連れて行かれれば投獄される者ばかりです。有罪はかたい者たちです。だから、「仲直りに努めなさい」と言われます。賄賂でも何でも使って訴えられないようにせよと言われるのではありません。「和解するために努力せよ」(直訳)です。訴えられて有罪になるのは明白だけれども、和解してもらう。それが、「今の時」になされるべきことです。神様に対して正しいことは、神様に有罪を解いていただくことです。
 「あなたに言う、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから(牢)でることは出来ない」(59節)。獄中ではだれも負債は返せません。最小単位の一レプトンさえ返せない。主は地上の平和を貪り自らを偽善者としている罪人を神の国に引き入れるために一心になっておられます。それで「受けねばならない洗礼」に労苦を負っても進んで行かれました。私たちの一レプトンを返すためにです。
 

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