札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「十字架と復活からの道」
ルカによる福音書24章13節〜35節
牧師 堤 隆
 3月27日 復活節礼拝説教から 
「教会の声」説教(2016年4月号)

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 十字架と復活からの道が分からなくなっている二人の弟子に掛けられた言葉は意外なものでした。「物分かりが悪く、心が鈍い」といっても、頭が悪い、馬鹿だと罵倒されたのではありません。預言者たちに対して物分かりが悪く、それを信じる心が鈍いとおっしゃいました。みことばを悟り信じることがないから、途方に暮れるのだ(アポリア=道が無い、解無し)とおっしゃいます。それで、そのアポリアからの脱出の糸口として、十字架と復活は「栄光に入るはず」のことであることを聖書全体から説き明かされました(26,27節)。ここは「通訳した」(直訳)です。聖書のことばが、分からない外国語のように聞こえてしまう者に通訳してくださった。
 「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(28節)のは、十字架と復活からの道を主ご自身が進んでおられたということです。アポリアからの脱出口を示された二人でしたが、まだ完全に脱出していませんでした。それで「一緒にお泊まりください」と願い出ましたところ、主は「先を急ぐ」とはおっしゃいませんでした。「イエスは共に泊まるために家に入られた」。ルカは「泊まる〜泊まる」と繰り返しています。主が「留まってくださる」(直訳)ことを強調しています。甦って生きておられる主に留まってくださいと願い求めれば留まってくださる。ルカはこう記しながら自分の教会仲間に訴えています。ですから、わたしたちも北一条教会も留まってくださいと祈り求めれば、主は留まってくださる。
 留まってくださった主は食客ではなく、テーブルマスターとして晩餐を主催されました(30節)。これはただの食事ではありません。すぐに気づくことは、「主の晩餐」のときと同じであることです。主は「主の晩餐」をここでもう一度催して十字架と復活を分からせようとなさいました。聖書全体が十字架と復活において成就したことを示されました。そのとき、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(31節)。みことばと聖晩餐によって十字架と復活が説き明かされると「イエスだと分かった」のでした。遮られていた目が開かれました。それで、ふたりは語り合いました(32節)。ここには「われわれ」が4回出てきます。「道でわれわれに話しておられたとき、われわれに聖書を説明してくださったとき〜われわれの心はわれわれの中で燃えたではないか」(直訳)。これはルカの文体と異なります。クレオパの言ったことをルカがメモしておいてそれをそのままここに書き移した可能性が高い。クレオパ自身が目を開かれたことを証言したことは間違いありません。「わたしたちのこころは燃えた」とは直接体験した人でないと分からないことです。みことばに心が燃やされた。みことばによって心の目が開かれた。だから、肉眼では見えなくなっても、「イエスだと分かった」のでした。ルカはクレオパの体験を自分たちの教会においても体験できることだと言っています。ですから、わたしたちも肉眼で見なくても、みことばを聞いて心が燃やされるとき、心の目が開かれて復活の主を見ることが出来ます。
 十字架と復活からの道を示された二人は、実際にその道を辿るために出発しました。そして、11人の使徒たちの集まっているところに至りますと、「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていました(34節)。これは古代教会の復活顕現定式に則った表現だと言われます。同じ表明がコリントの信徒への手紙一の15章5節にもあるところからも分かります。そこにおいてパウロは「わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と言って、教会に伝えられていた公式の復活顕現定式だと申します。教会の信仰告白と言っても良い。シモンとはシモン・ペトロのことです。ペトロもまた途方に暮れていた人です。主を三度否んで取り返しのつかないことをしてしまい、道を無くしていました。自らの人生「解無し」の真っ直中に、甦りの主が現れてくださったのでした。道が拓かれました。
 わたしたちの教会も生ける主にお会いするところです。心の目を開かれて十字架と復活からの道を歩んでまいりたいと思います。
 

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