札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「愛の報い」
ルカによる福音書14章1節〜14節
牧師 堤 隆
 4月24日 主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2016年5月号)

 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。
  イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 自己主張ばかりしていると周りの人のことが見えなくなると主は指摘なさいます。「あなたより身分の高い人が招かれており〜『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない」。その自己主張は末席に値するから、「むしろ末席に行って座りなさい」(8〜10節)。これは単なる処世術ではありません。謙遜に見せておいたら、周りの人は一目置いてくれるという話ではない。「誉れある人」(8節の原意)の続きで主はお話になっています。ですから「みんなの前で面目を施す」ことも意味合いが異なってきます。「あなたに栄光があるだろう(直訳)」と言われています。世間体の面目ではありません。人からの誉れだけでなく、神様の栄光を映し出すようになる。誉れも栄光も、自分で自分に帰するものではありません。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。自分以外の人にそうされる。「友よ、もっと上席に進んでください」(10節直訳)と。対等な友が「もっと上席に」と勧めてくれる。友を大切にしようという「心」が差し向けられる。主は単なる謙遜ではなくて、この友を大切にする心を通じ合わせるようにと教えておられます。そうして、むやみな自己愛に沈む者をそこから解放しようとしておられます。
 さて、招待を受けた客の解放の次に、今度は「また、イエスは招いてくれた人にも言われた」(12節)。招かれた客だけが席次の上位を求めて自己主張して自分を愛して止まないのではないと言われます。「招いてくれた人」にも同じ問題があることを主は見抜かれました。昼食会や夕食会という正式な宴会のことを言われます(12〜13節)。この場合、「招く人」は日本の茶事で言えば亭主に当たります。宴会の主人です。客をもてなす人。英語のホストです。ホストはホスピタル(病院)、ホスピスの語源です。ホスピタリティと言えば「もてなしの心」のことを言います。招く人にも「心」が大事だと主は言われます。宴会のもてなしが、お返しにあるかどうかということに走り、貸し借りの問題にされてしまう。ここにも「友人」が出てきますが、10節の「さあ、友よ」という心のこもった友人ではありません。「兄弟、親類、近所」という近しい間柄の一例として「友」が上げられています。間柄は近しくても「心」が通っているかどうかは別だと主は言われます。「近所の金持ち」とありますように、いくら近所という近さにあっても、相手が金持ちであれば、もてなされて当たり前と思うに違いない。もてなしの心が通じない。「お返しをするかもしれない」という所は「代償」という語が当てられています。ギブ アンド テイクです。ギブ アンド テイクの世界では、心も何も無い。取引です。それで、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と主は言われます。・・・自分より身分の低い、立場の弱い者たちを招けば、普段正式な宴会などに呼ばれたことのない者たちは、大いに喜んでお礼を言ってくれるだろう。そんなみみっちい話ではありません。人を見下しておいてお礼を求めるなら、やはり代償を求めているいることになります。貧しい人たちは「お返しができないから」と主が言われるのは、貸し借りの世界に生きていないということです。上下関係はない。そんな自由な世界に入れるから「あなたは幸いだ」と言われます。
 上下、貸し借り勘定のない自由な世界とはいえ、それは決して「無償の愛」と主は言われるのではありません。無償の愛だけで暮らす、理想郷の夢物語を語っておられるのではありません。「あなたは報われる」(14節)とはっきりおっしゃっています。きちんと報われる愛に生きられる。それは人からの報いではなく「正しい人たちが復活するとき」のもの、神様の前に正しい人として立つときのものです。神様の憐れみを受けて人を大切にする正しい者が復活するとき、その愛に代償が与えられる。主はこの愛の報いを約束してくださっています。このお約束を今「あなたは幸いだ」というみことばと共に受けて、報いのある愛に生き始めたいと思います。 
 

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