札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「五旬節の日が来て」
使徒言行録2章1〜13節
牧師 堤 隆
 5月15日 ペンテコステ主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2016年6月号)

  五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 五旬祭の日が満ちるとき、祈って待っていた者たちに天が応えました。「天」ですから、神様が応えてくださったということです。「突然、天から響きが起こった」(2節直訳)。そして、「舌が現れ」(3節直訳)と続きます。この間に「〜ような、〜ような」と入っていますから、少々分かりにくくなっているかもしれません。実体は音と舌の二つです。天から音がして舌が現れた。これが天の神様のお答えでした。音ということでは、舌も声・言葉を発する天で共通するところがあります。この「舌」は英語に訳せばタングになにます。辞書でタングを引きますと「舌」の他に「言語」という意味もあると出てきます。天からの響きは最初は音としか聞こえなかった。それが、舌となって人間の言語となって、一人一人の上にとどまった。この場面は何か異様な光景を思い浮かべさせられますが、実は自然現象を言うのではなく、神様が引き起こされたことであることを言いたいがためにこのような表現を採っています。言いたいことは、本来人間には聞き取れない神のことばが人間の言葉となって現されたということです。
 それを言うのに「激しい風が吹いてくるような」と言っています。風は自由に吹きます。ですから、人間の作為ではなく全く天の自由によって、神様の自由によって引き起こされたことだと言っています。次の「炎のような」というのは「舌」に係っています。燃えるようなことばを発する「舌」だと言います。人に左右されない神のことばが、熱く語る舌となって、一人一人の上にとどまった。このことは聖霊によるとはっきり言われています。「すると、一同は聖霊に満たされた」(4節)。この「一同」というのは1章13〜14節に出てきた人たちのことです。祈りにおいて一つとなっていた「一同」です。この一同は三つのグループからなっていますが、いづれも失敗を抱える者たちばかりでした。人前ではおこがましてとても口を開くことが出来ない者たちした。言わば、言葉を無くしていた者たちです。とてもおこがましくて、人に何か言えるような者ではないことを本人たちが一番よく分かっていました。そんな「一同」に聖霊がとどまりますと、「霊が語らせるままに」話し出しました。ここは、原文ではもう少し回りくどい言い方になっています。「霊が、語ることを与えた」です。しかも、この「語ること」には「演説」という語が当てられています。堂々と語ることです。ですから、ここは「霊が彼らに堂々とかたることを与えるままに」となります。回りくどいですけれども、言わんとするところはよく分かります。一同は、虚勢を張ってそっくり返って大声で語り出したのではない。自分の失敗を隠すためにしらばくれるて多弁になっているのではない。聖霊によって、神のことがが下され、その神のことばによって神様と心を通わせることができた。言葉を無くしていた者が、まず神のことばによって神と心を通じさせていただいた。それで、自分自身の心が開かれて、人とも心を通わせて話せるようにされました。まず、神様が失敗した者の心を開くことばを掛けてくださいました。それで、この一同は心開かれて、人にも心開いて話すことができるようにされました。立ち直らせていただいて、心の底から人に語れるようにされました。・・・
 一同は失敗者を立ち直らせるところに神の偉大さがあると世界中に堂々と語りだしました。その言葉は人の心に通じるものとなりました。まず、「いったい、これはどういうことなのか」(12節)即ち「これは何を心に持っているのか」(直訳)という驚きとなりました。「心に持つ」とは意図があるということです。誰の意図が自分たちに向けられているのだろうかと考え始めました。心を通わせる第一歩です。神の御心への第一歩を踏み出しています。しかし「新しいぶどう酒で満たされている」(13節直訳)とふざけて言う者がありました。「聖霊に満たされて」が分からない者の言い種です。わたしたちは実際に聖霊に満たされて神と人とに心通わせつつ歩んでまいりたいと思います。それが、人々を神の御心へと踏み出させる伝道になります。
 

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