札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「疑いから喜びへ」
ルカによる福音書24章36節〜53節
牧師 堤 隆
 2月5日主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2017年2月号)

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 甦りの主が弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と祝福されましたのに、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったといいます。主が立ち現れて祝福してくだされば、それだけで喜び躍り上がっても良さそうなものですが、このときの弟子たちは全く反対の反応を示しました。茫然自失といった有様です。実際には無いものをあるかのごとく見ていると思っています(亡霊を見ているのだと思った)。主にお会いしたいと思うあまり幻を見てしまったと思われて、そのむなしさに恐れをなしたようです。信仰があれば見るはずのない幻をみてしまったので、自分たちの信仰の危うさを恐れました。わたしたちも主の日ごとに、教会にきて甦りの主にお会いしています。けれども、お姿は目に見えませんしお声も聞こえません。すると、本当にお会いできているのだろうか疑問が湧きます。すぐにこんなことではいけないと思うのですが、自分の信仰の危うさに恐れを感じます。しかし、主はそんなわたしたちの危うさをよくご存じで、「うろたえ〜心に疑いをお越すのか」と言われます。
 しかし、不信仰を責めたり叱ったりはなさいませんでした。「見なさい〜触ってみなさい」と声をかけ、疑う者にならないで信じる者になりなさいと言われました。ここを読みまして、わたしはすぐにあの「疑い深い」とあだ名されるトマスを思い浮かべました。手に釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ決して信じないと言い放ったあのトマスです。主はそんなトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。ですから、ここでも弟子たちに信じる者になるようにとご自身を差し出してくださっています。それなら、弟子たちは今度こそ喜んだかというと、なんとも中途半端な妙な反応をしました。「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」のでした。喜びのあまり信じられないとは、どういうことか。それほど嬉しかったというのとも違うようです。「見なさい、触ってみなさい、よく見なさい」と言われたことが訝られたようです。この直前に出てくるクレオパたちは、見ないで信じること、みことばによって心燃やされて信じました。それなのに今更、見て信じなさいと言われたのですからためらわれたようです。正直と言えば正直です。すると主は今度は、「何か食べ物はあるか」とおっしゃいました。それで焼いた魚を差しだしますと、主は彼らの前で食べられました。主はご自分が実在していることを何とか分からせようとなさるのでした。今も、人の悩み痛み疑いを身を持ってお知りになることができる、人となった神であることを示されました。
 さらに「彼らの心の目を開いて、言われた」とあります。分からないままに信じるようになどとはおっしゃいませんでした。そんな信心ではなく、「聖書を悟らせるために」心の目を開かれました。やはり、みことばを納得して信じることを求めておられます。これまでの「心を燃やされた」という流れからしますと、この「心の目を開いて」ということがよく分かります。
 弟子たちは実際に心の目を開かれて、十字架と復活の真理・罪赦しを納得させていただきました。その上で、「これらのことの証人」とされました。自力ではなく「高い所からの力」で証人となると言われます。そのとき、天からの力=聖霊におおわれる。この「おおわれる」は「着る」(直訳)と書いてあります。聖霊を着る。神の力を身にまとう。伝道の実行力と勇気を神様からいただいて身につける。父なる神と御子イエス・キリストと聖霊が一体となって、わたしたちを励まし、勇気と力をまとわせて伝道へと遣わしてくださる。
 実際に弟子たちはこのとき、主から祝福を受けています。そして、主は「祝福しながら彼らを離れ」られました。けれども、もう弟子のだれも疑ったり悲しんだりしませんでした。「大喜びでエルサレムに帰り」ました。喜びながらも信じきれなかった弟子たちは、一変させられました。混乱と疑いを晴らしていただいて、大喜びしました。本日はこの礼拝に続いて、教会総会を開催いたします。主の祝福を受ける教会会議とされたいと思います。
 

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉