札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「変わらぬ神の選び」
使徒言行録1章12節〜26節
牧師 堤 隆
 2月26日主日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2017年3月号)

 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 甦りの主が約束と使命をお与えになって天に昇られると、使徒たちは行動を開始しました。言行録は三つあげています。最初にオリーブ畑を出立します。そして、エルサレムに戻りますと、泊まっていた家の上の部屋に上りました。いずれも象徴的です。主のご受難を遡るような格好になっています。オリーブ畑はゲツセマネのあった場所ですし、エルサレムは何より十字架と復活の場所です。そして、家の上の部屋で最期の晩餐が行わました。主が昇天された「そのとき」、使徒たちは主のご受難の場所を遡るような行動に出ました。そうしますと、使徒たちは甦りの主が昇天されると「そのとき」、主のご受難を一つ一つ噛みしめながら、与えられた伝道の使命がどれ程のものであるかを確認させられていきました。
 このとき、行動を共にしたのは直接の使徒たちだけではありませんでした。著者ルカは三つのグループの人々であったと報じています。最初が今は11人となっていた使徒グループがひとりひとり名をあげています。しかし、ユダの名前はありません。次が「婦人たち」ですが、ユダや11人のように主を裏切ったり見捨てたりしなかった女性としてあげられているのではなさそうです。十字架から三日目にお墓に出かけておますが、三日目に復活するとのおことばを思い出してではありませんでした。ただ香油を塗るためでした。みことばにつまづいた使徒たちと変わりありません。三番目は「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」です。主イエスの親族ですから、血のつながりの深い人たちです。しかし、この人たちも失敗を抱える人たちです。主が伝道を開始し多くの人々に感化を与えられると「あの男は気が変になった」とあらぬ噂が立ちました。すると、この親族は噂を鵜呑みにして主を取り押さえにやってきました。主の伝道の真意を捉えることに失敗しました。以上、三つのグループの人々は最初の教会の核となっていった人たちでしたが、いずれも失敗を抱える人たちでした。著者ルカは、むしろこの点に注目するよう促しています。失敗者によって教会は出発した。よく反省したからではない。心を入れ替えたからでもない。ひたすら、甦りの主のおことばによって立ち直らせていただいて、再出発できたのだと訴えています。その第一歩は祈りでした(14節)。立ち直らせてあげようとのおことばを信じて、「みことばが成りますように」との祈りが再出発の第一歩となりました。
 そうして、「百二十人ほどの人々が一つになっていた」といいます。これはただ大勢ということではありません。当時、男子が120人集まればユダヤ会堂で会議が開催できたといいます。公の決議が可能な120人でした。また、120は12×10でもありました。イスラエルの12部族に匹敵する新しい神の民を暗示しています。この新しい神の民は純粋無垢の完璧な者たちが召集されて始まったのではありませんでした。120人とて、初めの3グループの人々と五十歩百歩であったろうと思われます。すねに傷があるという程度では済まない。主の十字架にい担われなければならない者たちばかりでした。
 そのような者たちが「主の復活の証人となるべきです」と言われています。この「〜べきです」と訳される言葉は「聖書の言葉は、実現しなければならなかった」の「ならなかった」と同じ言葉です。神様の必然・決定を表しています。神様が使徒を立てて「主の復活の証人」とされる決定は変わらないとペトロは訴えました。ペトロそれをだれよりも痛感していました。十字架によって罪赦され、甦りの主にお会いした自分の」ような者が、まさに「復活の主の証人」としていただけたと信じていました。
 それで、使徒の補充において「くじを引く」ことにしました。選抜試験とか面接試験をしたのではありません。くじならばチャンスは公平で誰も文句は言えないからでもありません。祈ってくじを引いたといいます。宝くじが当たりますようにと祈るのとは違います。「どちらをお選びになったかをお示しください」と祈りました。神の選びを求めました。わたしたちも変わらぬ神の選びにお応えして伝道に遣わされたいと思います。 
 

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉